ある概念が、その人にとって
誰かの言った言葉の受け売りなのか、
血肉になっているのか、
はたまた、
疑問を抱きながら一生懸命
真実にしようとしているのかなど、
意識エネルギーを読んでいくと、
割とはっきりわかります。
信じてもいないことを
口先だけでいかにペラペラと
上手にしゃべろうと、
その薄っぺらさはエネルギーレベルでも
明白だし、
一生懸命信じて
そのように努力しているけれど、
どうやってもその言葉のエネルギーが
その人の中では異物となって
馴染んでいないとか、
ある教えを長年実践されてきて、
その人の生き方として馴染んでいるとか
色々な様子が見て取れます。
受け売りなど、異物のようになっている
ときは、その人が発する言葉の
バイブレーションだけでも
わかりやすいですね。
また、ちょっとケースは違いますが、
同じ言葉を別々の人が話すとき、
その言葉にどんな概念、意識を
乗せているかというのも、
違うことがあります。
そういうことがあるので、
議論をするときなどは、まずは
言葉の定義のすり合わせが
必要だったりします。
議論でなかったとしても、
普通に話していて、ある言葉に
その人特有の何かネガティブだったり
ポジティブだったりのフラットではない
観念を乗せて話しているのを感じる
時もあって、
話の流れによっては、
そういうのがひどく心地悪く感じる
こともあったりします。
話は戻って、
なぜこんな話をしているのかというと、
異物は所詮、どこまで行っても異物だ
と思うことがあって、
どんなにすばらしい概念、教えだったとしても、
それを自分の中に丸呑みすれば素晴らしくなる
というものではありません。
思うに、教えが役に立つのは、
その人の中に元々備わっている
善き資質、叡智、真実と言ったものを
思い出させる、気づかせるためであって、
その人の中に、何か新しく
素晴らしいものを創り上げるなんてことは
出来ないんじゃないかと思うのです。
だから、丸呑みするような取り入れ方
をして、ダメな自分、欠けている自分が
素晴らしく、良い自分になれる
というものでもないのです。
ところが、しばしばそういう学び方、
取り入れ方をする人に出会うのですが、
そういう方たちに共通しているのは、
自分が迷子になっているということです。
本来自分の中に備わっているものを
否定して、まるっと別の自分を
生きようとしていて、
本来の生きるべき自分が宙ぶらりんになり、
その上に異物の概念がうまくハマり切らずに
機能不全を起こしてしまっているのです。
常々言うように、
人生に調和を取り戻したかったら、
自分に帰れ、自身と和解せよ、です。
理想の正解集をインストールして
それですべてうまくいくのだとしたら、
あなたがあなたとして生きる意義が
どこにあるでしょうか。
あなた自身が、あなたを通して現れる
叡智を生きるから、あなたの命、人生は
唯一無二であり、尊いのです。
教えは、あなた自身の内なる叡智に
触れるために使うように。
受け売りの概念を取り入れて
それをいかに上手に話すことが
できるようになったとしても、
それで自身の本質が豊かになったり
深まることはありません。
けれど、
自身の内側から溢れてくるものの
深まり、輝きは、真に自身を満たし、
誰かの心に触れて、何かしらの
善き変化をもたらすでしょう。
自分のことを頑ななまでに
ダメだと信じ込んでいて、
信用も信頼もしないという人は
多いけれど、
そういう人こそ、本当は
信じるに足るものを外側に探すのではなく、
自身の内に出会うことが大切だと
思うのです。