先日、かなりハードに喉を使う
ことをして声帯を痛めてしまい、
ひどい炎症を起こしてしまいました。
色々対策はしたものの、
どうも回復が思わしくない中、
そうだ、体の声を聞かなければ!
と思い至りました。
問題が起こった時は、
まず当事者の声を聞くというのは
鉄則です。
で、炎症を起こしている喉の細胞に
どうした~?何か伝えたいことある?
って聞いてみたら、
ものすご~く悔しくて悲しくて
やるせないんだ~!と泣いていました。
何がそんなに悲しいのか、
さらに聞いてみると、
自分のやることなすことに
ケチをつけて来られて、
信じてもらえず、疑いの眼差しを
向けられ、見捨てられているのが
悲しいと言います。
そんな喉のところの気持ちのカケラ君の
声を聞きながら、ふと蘇ってくるのが
何をやってもできない坊主だった
小学生の頃の自分でした。
学校でも習い事でも、
出来ないからやる気もないし、
先生からの当りもキツイしで
ますます嫌になる、の悪循環でした。
あの頃のいたたまれない気持ちは、
大分薄くはなっているし、
今なら、出来なくても死なないし、
くらいには開き直れるものの、
どこか自分に希望が持てず、
淋しい感じは残っていました。
子供のころから、
周りのみんなは難なくできるのに、
自分だけができない、ということが
結構あって、
そのことが
ひどく自尊心を傷つけてもいたし、
自分はどうしてここにいるんだろう?
いる価値のない人間だという思いも
古くから馴染み深いものでした。
その思いは、
どれだけ努力してあることが
人並み以上にできるようになっても、
別の場面で繰り返し繰り返し
やってくるのでした。
大人になってからは、一番は
もう十数年学び続けている
レナードジェイコブソンのプレゼンス
の教えでの挫折が大きくて、
何度か再チャレンジしつつも、
今は大分諦めて少し距離を置いています。
(決して教え自体が意味のないこと
とは思っていません)
そして色々な習い事にエネルギーを
注ぐようになったわけですが、
そうすると、途端に同じ構図の
あの思いが浮上してくるのです。
まったく、法則通りですね。笑
別に逃げているつもりはないのですが、
自分にできることはもう大分
やり切った感があるので、
私にはどうしようもない、
と思っているところもあります。
ただ、人生はそれでも
私を許して手放してはくれず、
何かを伝えようとしてきます。
仕方がないので、
いつものワークでしているように、
それらの思いに飲み込まれずに、
ただじっとそれを受け止めていました。
あらゆる惨めさや悲しみや淋しさ、
いたたまれなさをそのままに、
何かをできるようになろうとせず、
自分を否定もせず、息も止めずに
ただ、それを生きていました。
するとふいに、
あるインスピレーションが
やってきました。
言葉にすると、こんな感じです。
どんなに辛く、惨めな瞬間であろうと、
神とともに在ること。
そのままを、神とともに生きればいい。
その姿が、既に神事なのである、と。
人間目線でものごとを見ると、
出来ないことを出来るようにして、
出来るだけ早く惨めな状況を脱すること
を目的にしてしまいがちだけれど、
神目線で見ると、
出来る出来ないは問題ではなくて、
最も辛い心情を抱いているときに、
そのままを神とともに歩めること自体が
テーマなのでした。
十数年このテーマに向き合い続けてきて
初めてたどり着いた視点でした。
レナードの日本での最後のリトリートが
いつだったか、あの日、私は深い絶望
とともに帰宅したのですが、
胸が張り裂けそうな絶望から、
逃げることはしませんでした。
ただ、神には裏切られた、
と思っていたかもしれません。
それから、神は私にだけわかる
ものすごく不思議なやり方で、
メッセージをくれました。
諦めず、歩み続けろ、と。
その通り、どうにか距離を持ちつつも
歩み続けては来ましたが、
今の今まで、私は神の意図が
全く理解できませんでした。
神の意図は、いつも
人間の想像をはるかに超えたところから
やって来ますね。
惨めさも淋しさも悲しみも、
神とともに生きることがご神事
というならば、やって参りましょう。
それを私の中の内なる神が望むのなら。