影響を受けるというのは
良いこともあり、そうでないこともある
と常々思うのですが、
かと言って、全く何ものにも
影響を受けずに生きるというのは
無理な話。
好ましい影響なら積極的に受けに行き、
そうでないなら離れる、というのが
賢い在り様かと思います。
けれども、意図して取り入れた影響なら、
それが本当に自身の血肉となっているのか、
節目節目できちんと検証することは
必要かな、と思います。
そうでないと、
下駄を履いた自分が本当の自分の実力だと
勘違いしてしまいます。
借りてきた力は、早晩剝げるでしょう。
肝心な時に、もろく腐って自分を支え得ない
空虚な柱であったと、あるいは、
その真の意味を理解せず、
到底使いこなせない諸々を前に、
途方に暮れる日が来ないとも限りません。
誰かや何かにあやかって、
側にいる、あるいは側に置くのも
良いでしょう。
けれど、間近でその空気に触れているのなら、
あやかっているだけではいけない。
自分がそれを体現できるように、
常に盗み、血とし、肉とする意識を
怠らぬように。
自分に取り入れたのなら、
自分の中でさらに磨き、練るように。
他のものを取り入れ、
自分の心身で体現するには、
自分と他者との違いを知り、
そのエッセンスを掴み取ったうえで
表現しなければいけません。
他者と同じようにそのままやっても、
うまくはいかないでしょう。
あなたは唯一無二だし、
その人も、唯一無二だから。
あなたは唯一無二の自分に対峙し、
自身の命を知らなければなりません。
ものごとの奥義を体現するということは、
自身の命にそれを表現すること
と言えるかもしれません。
だから、自分の命を知らぬ者は、
奥義に触れることはできない。
あやかって、雰囲気に浸っているだけでは、
張りボテなのです。
それで満足なら、それでもいいですが、
そうでないなら、無数の自分自身への
問いかけがあるはずです。
本当のところ、
自分が求めているのは何なのか、
いかにしてそれに触れるのか、
求めていると思ってるこの思いは、
本当なのか。
何度も何度も、道を歩むことの意味を
自分に問いながら、自分を導くものの
意図を知っていくのです。
あやかるだけの人には、
そういう道を歩むことの重み、深さ、
迫力は、到底ないですね。
その環境、その人が無ければ歩めない
というのは、自分自身の道ではないのでしょう。
自分で、本物の道を見出さねばなりません。
みな、一人で生まれ、一人で死んでいく。
だからこそ、出会いが温かく、尊いのです。
一人で自分の道に対峙する孤独に耐える
気概を持つように。
孤独を知る人は、優しく温かい。
命の尊さを知っています。
孤独は恐れるべき敵ではなく、
それを知り、ともに在ることで、
人間の奥深さ、慈愛、叡智を教える
教師でもあるのです。
孤独の中でしか、知り得ないこと、
わからないことがたくさんあります。
だから、孤独を知って、
そこから学び、自らを養うように。
孤独に飲み込まれ、いじけ、
邪な思いに自分を染め上げぬよう。
孤独を抱きしめ、よくよく対話し、
よき友となるように。
自分自身の命を知ろうと願う人へ。