どこにいて、何をしていても、
自分を通して表れるものによって、
善きフィールドが形成されるように。
そんなことをふと思いました。
近頃は、失いたくないものが
失われたり壊されたり、
存亡の危機にあったりということを
良く見聞きするのですが、
有形無形の善きもの、素晴らしきものが
無惨な姿になっていくというのは、
何とも言えない淋しさと喪失感があります。
自分の中で、そういう感情や感覚について
見ていったときに、私は外側のものに
執着していたのではないか、
と思いました。
あの素晴らしさは確かにそこに、
それによって現わされていたのだろうけれど、
それを享受し、あやかるばかりではなく、
自分からもこの世界に、
何か善きものを現し、貢献できる
存在でありたい、ということを
思ったのでした。
私たちは何か、善きものがあると、
とかくそれにあやかりたい、
享受したいと、自分が受け取ること
ばかりにすがろうとする傾向が
あるのではないでしょうか。
たとえば、金運や恋愛運に良いとか、
強力なパワースポットがあると聞けば
そこに押しかけ、願掛けをしに行きますが、
一方で、その場所のために自分から
何かをしたでしょうか。
誰かが大事に育て、維持してきたものを
自身の欲望のために土足で踏み込んで
「消費」していないでしょうか。
私が小学生の時、担任の先生が産休となり、
その間、教頭先生が代理を務めて
くださった時期がありました。
最初はすごく怖い先生だと思っていましたが、
厳しいけれど筋の通った指導の仕方で、
やがて先生のお話が大好きになりました。
その先生の教えてくださったことに、
どこかを訪れて、使わせていただいたら、
来た時よりもきれいにして帰りなさい、
という教えがありました。
この教えは今でも私の中で生きていて、
忘れていたこともあったけれど、
最近ではトイレでも洗面台でも、
出来る限りゴミを拾ったり水撥ねを
拭いて出てくるようにしています。
状況にもよりますが、
道でごみを拾っていくことも
ありますしね。
まだまだ、本当は行動できるはずなのに
しないでスルーしてしまうことも
多いのですが、もっとフットワーク、
軽くありたいですね。
まぁ、そういった些細なことから、
自分が享受したいと思った
あの素晴らしきもののエッセンスを、
様々な表現でこの世界に現して行ったら、
自分の在り方で、世界は素晴らしいところ
になるんじゃないか。
あやかりたい、享受したい、という
貪る側から、善きものをこの世界に
生み出す側に。
私たちには、そういう素晴らしいものを
生み出す種が宿っているのだと思います。
貪る専門の人は、きっとそれを
忘れてしまって、自分では生み出せない。
だから、誰かや何かに貰わなくては、
と思い込んでいるのでしょう。
あるいは、自分からそれをするのは
損だから、どこからか奪ってきた方が
得だという考えもあるのかもしれません。
気張って何かこの世界に奉仕しよう
というわけではなく、ただ、
自分が自分を全うすることによって、
この世界の調和に貢献できたら、
と思うのです。
それは、たとえば花が花として
咲くことを頑張っていないのに、
猫が猫として頑張っていないのに
それとともに在ると自然に
周囲を和ませ、調和させてしまう
が如く、です。
自分の中にある、
善きものの種を生きるように。
あなたを通してこの世界に現れる
善きものが花開きますように。