本当に求めてきたものに
触れてしまうことを、
私たちは恐れているところがある
ということをしばしば思います。
あれほど求め続けてきて、
こんなにもそのための努力をしてきて、
いざ、それが目の前に現れた時、
心も体も硬直して動けなくなる。
恐くなったり、
それすらも感じられないほどに、
ただ時が止まる。
そんなケースを
たくさん見てきました。
受け取られることを待っているそれに
手を伸ばし、受け取れば良いだけなのに、
扉も開いていて、鍵もかかっていないのに、
本当にそれを受け取ってしまっても
良いのだろうか?自分には、資格が
ないのではないか?などという思いが
浮かんできて、容易に受け取れないのです。
なぜ、あれほど求め続けてきたものに
触れることを、そんなにも恐れているのか。
その恐れの奥には、
深い絶望感があるように感じます。
本物であるはずのものを手に入れて、
もしそれが思ったようなものでは
なかったとしたら。
絶対的な安心や幸せであるはずのもので
自分がそれを感じられなかったら。
自分がそれにふさわしくなかったら。
絶対的な希望であったはずのものが、
絶望の最後通牒になってしまいます。
だから、
その真偽を明らかにしない状態で、
絶対の希望は希望のままでおくように
真実には触れないところで、
精神のバランスを取ろうとしている
のかもしれません。
ただ、そうなると、
当然のことながら、本当に求めているもの
には触れられませんし、自分の心を
はぐらかし続けることになります。
さて、ここからが分かれ道。
恐いからやめる、今まで通りで行くか、
恐くても、すべてを引き受けて、
欲しいものに触れに行くか。
人は、人生のどこかで
自分で自身の未来を決めなければ
いけないときがあるのだと思います。
感情解放ワークを長くやってきて
良く思うのは、みな最悪の状況で味わう
感情を避けようとして手前で
突っ張って抵抗するけれど、
その感情は、どれだけ触れないように
頑張っても、既にその人の心の奥深くに
存在しているのです。
ただ、自分で無いことにしているだけで、
事あるごとに、それは何かのきっかけで
不安や恐れを掻き立て、それ自身の存在を
主張します。
であるならば、不安や恐れを感じた時は、
既に自身の内にある、未完了の
その感情のカケラ君をお迎えに行き、
抱きしめ、癒し、統合してあげることです。
そうすれば、あの絶望的な感覚も、
薄れ、やがて消えていきます。
そうしたら、ちゃんとほしいものに触れ、
抱きしめられる自分になっていくでしょう。
欲しいものを素直に求め、
触れられる人は幸いです。
けれど、私たちの多くは、
長い魂の旅路の中で多かれ少なかれ
傷つき、絶望し、自分を閉ざし、
歪めながら何とか生きてきています。
懸命に生きてきたその歩みも祝福して、
今度こそ、本当に心の底から満たされる
幸せを生きられると良いですね。
そういう幸せは、誰かが資格を授ける
ものではないし、どこかの許可が
必要なわけでもありません。
ただ、自分がそうなると決めて、
そうなるように行動するだけ
なのです。
自身の人生を創造していく力を、
妄想の中の誰かや何かに明け渡さぬように。
しっかりと、その力を自分に引き戻し、
本当に欲しい人生を創造していきましょう。
あなたの人生が、
心底の喜びと豊かさで満ちますように。