スピリチュアルでよく言われる
「鏡の法則」、色々言う人はいますが、
私は自分自身を知るのに
これほど優れたツールは無い
と思っています。
けれど、これを使いこなすには、
「他人のふり見て我がふり直せ」
というようなマインドの理解では
到底できません。
もっとリアルにその本質に触れて、
直感的に真実を見るのでなければ、
「鏡」は使えないのです。
これ故に、
本当に使いこなせている人は、
そう多くは無いのかな、と
感じています。
けれども、
いったんその使い方のコツを
知ってしまったら、
自分の人生に起こる出来事や
出会う人々の縁の不思議、
人生の神秘を感じざるを得ません。
何しろ、それらは寸分たがわず、
自身の内面そのものであることを、
理屈を越えて、知ってしまうのですから。
そこには、どんな精密なプログラム、
仕組みが働いているのでしょう。
自分を越えた、神秘なるものの働きを
否定できなくなってしまうのです。
簡単にはピンとこないものほど
自分にとってはかなり深い死角になっていて、
気づいたときの感動、変容は大きくなります。
感情解放のセッションでは、
その気づきに至るものの見方、
視点を誘導していくのですが、
気づきがクリーンヒットしたときの
みなさんの表情、エネルギーの変化は、
何度拝見しても、格別ですね。
ただ、この気づきをマインドレベルで
通り過ぎようとするケースも多くて、
本当に見ればわかるはずなのに、
見ないで頭だけでそういうものなのか、
と納得させて済ませてしまうのです。
その態度こそが、その人の人生に
次々に心乱す出来事や人が
現れる元なのです。
しばしば人は、
本当に求める幸せや願いに導く
はずのものを拒絶し、避けて通ります。
忌避しないで、直球を受けたら
最短コースで求めていたものに
辿り着けるのに、むしろそれを敵視し、
最大の障害物だとすら認識しています。
そうやって、人生を遠回りするのですが、
その間にも、様々な鏡の像がやってきては
その人の心を揺さぶりながら、気づきを
促し続けます。
意固地になるほど、人生は試練に満ち、
苦しみも増しますが、多くの場合、
気づきは自分が絶対に正しいと
固定している観念を緩め、
離れたときにやってきます。
だから、その正しさは本当なのか?
絶対だと言えるだろうか?
まだ自分が気づけていない視点が
ないだろうか?と謙虚に問い、
その可能性を受け入れる柔軟性が
大切なのです。
どうして自分の人生には試練が
こんなにも多いのだろう?
と嘆くなら、自身のものごとに対する
態度を振り返ってみることです。
もし、その試練に何か意味があり、
自分を幸せに導くカギがそこにあるのなら、
それに気づかせてほしい、と謙虚に
祈った方が、よほど建設的だと
私は思います。
自分の正しさにしがみつき、
意固地になっている人のハートを
リーディングすると、
ハートの導きに背を向け、
明後日の方に意識を向いてちっとも
導きを聞こうとしていない様子が
見て取れます。
魂の深いレベルの導きなんて
求めてもいないし、我力で人生を
ねじ伏せようとでもするかの如く、
格闘しているか、彷徨っていることが
多いのですが、
そういう人は、それほどまでに
厳しい試練を経験する前に、何度も
お知らせは来ていたはずなんですよね。
けれど、それでも耳を傾けなかったか、
メッセージの聞き方を誤り、
正しく解釈できずに歪めてしまった
のかもしれません。
どうにも人生に対するこれまでの
応答の仕方で、ちっとも楽にならない
というのであれば、
今一度、まだ聞けていない、できていない
別の問いかけへの応答の仕方の可能性に
心を向けて見ても良いのでは
ないでしょうか。