天は、受け取る準備ができていれば、
いくらでも与えるんだな、
ということを思いました。
深い目覚めの意識にあるマスター
レナード・ジェイコブソンに
出会って十余年。
彼は私の人生にものすごく深い恩寵を
たくさん与えてくれましたが、
同時に、ものすごく厳しい
挫折と絶望も与えてくれました。
私は彼から二度、
「あなたは準備ができていない」
と言われたことがあります。
リトリートに参加したときは、
いつも自分なりにものすごく
意識を向けてその日を迎え、
出来る限りの取り組みをしましたし、
リトリート中も、
ずっと神に応えてくれるよう、
本当に祈り続けていました。
それでも、その時はその祈りが
応えられることはありませんでした。
そのことですごく絶望感を味わったし、
深く傷ついたけれど、
もうこれ以上は歩めない。
これで応えられないのなら、
離れよう。
そう決心して臨んだ祈りは、
想像をはるかに越える
私にだけわかる形、
絶妙のタイミングで応えられました。
だから今、こうして歩み続けていられる
わけですが、それからも長いこと
何をどう準備したら良いのか、
わからずにいました。
ただ、あれから随分経って、
自分の何がいけなかったのか、
少しわかるようになり、
軌道修正を始めました。
自分なりに、何に対して、
どういう在り方をすればよいのか
見えてきたのです。
やっと、自分の人生と対話できるように
なったのですね。
ハートの導きは、頭の目先の欲とは
全く違った文脈の、違った次元から
来るものです。
それらを両立させることは、
多分不可能だと思います。
私がそう思っているだけかもしれませんが、
目先の欲が満たされた時の喜びと、
ハートの導きによって自分が満たされた
ときの喜び、充実感は、全く別のものです。
相容れない、というよりは、
次元が違うとでも言ったら良いでしょうか。
多分、ほとんどの人は
ハートの導きに従うことで人生が
うまく行く、と聞くと、
頭の欲望を満たすという文脈の
ポジションから、導きを
ツールのように使うというイメージで
捉えているような気がします。
でも、導きはそういう意識で
ツールとして使えるようなもの
ではないのです。
どうしてそういうことが
言えるのかというと、
導きは、頭の思い描く願望よりも
はるかに遠大な時間軸、かつ
多次元的、重層的な領域から
示される道だからです。
そこに本当に自分の意識を
チューニングしていったら、
小手先の頭の欲望レベルのストーリーが
描ける余地はありません。
ただ、その導きに
どこまで深く自分の意識を
映していけるか、
あるいは、導きを聞かず、見ず、
受け入れない選択をするか、
しかないのです。
ここで、導きを知りたいけれど
わからないのだ、というお声も
聞こえてきそうですが、
それは、本当には知ろうとしていない
ということなのだと思います。
私自身、あれほど求めていると思いながら、
本当には求めていない状態だった
と気づくまで、結構時間がかかりました。
気づいて、改めて自分の在り様を正し、
もう一度導きの問いかけの前に立った時、
軽々に準備ができている、とは言えない
自分であったということを知りました。
そこからさらに、向き合い続けている今、
という状態です。
けれど、何をどう準備して良いのか
わからなかった時と違って、
今は自分がどう準備すれば良いのか
わかっているのが救いです。
ここまで歩み続けてきて思うのは、
天は、私が求めるよりはるか前に、
与えることを決めている、
ということです。
それは、私が求めていないことではなく、
私が求めているものよりもはるかに
素晴らしいものなのです。
とかく私は、今の自分から推し量って
「この程度のもの」で手を打とうとしますが、
天が与えんとするものは、そのような
レプリカではないのです。
天が与えようとしているものを
自分が受け取れるのかどうかは、
ひとえに自分次第と言えるでしょう。