あなたは何をしている時に、
心が豊かだなぁ、充実しているな、
と感じますか?
家族など、大切な人たちと
食卓を囲んでいる何気ないひと時や、
仕事で頑張って素晴らしい成果を
挙げたときとか、
無心で好きなことに没頭している時など、
人によって、様々あると思います。
一方で、何だか物足りないとか、
自分がやるべきことをやっていない、
できていないのではないかと
常に追い立てられるように
感じながら生きていることが
ないでしょうか。
私自身、元々かなり
ワーカホリックな面があって、
どこまでも自分を追い込んでいないと
ダメなんじゃないか、と思っていた
ところがありました。
だから、休んでいると罪悪感を感じ、
今日は何も成果が無く、無駄な一日を
過ごしてしまった、と思うことが
よくありました。
今では有意義な時間に対する定義も
昔とは随分変わったので、
休むことへの罪悪感は大分減りましたが、
それでもどこか、思うように
ものごとが進まなかった時に
人生を無駄にしてしまっているのではないか、
と言うあの感覚が蘇ってくることが
あります。
どんな瞬間も、無駄だったということは
ないはずですし、そう結論付けるのは
ある価値観から見たレッテル貼りです。
これが有意義な人生の過ごし方だ
という基準にそぐわなかったので、
不満に思っているというだけのこと。
その価値観故に自分の人生が
幸せに感じられないのだとしたら、
価値観に人生をねじ込もうとするのではなく、
その価値観の枠を外して、
まっさらな在るがままの人生を
受け取れるようにした方が、
もっと人生の豊かさを
受け取れるのではないか。
そんなことを思いました。
たとえば、
速く走ることが唯一の充実した人生だ
と言う価値観を持っていたとすると、
人生で歩いているときは全て、
間違っているか、無駄で価値のない人生
と言うことになってしまいます。
一生の内でどれだけその人は
走っていられるでしょうか。
歩いていても良いし、
休んでも良い。
時には泳いでみても、
ただ浮いているとか、
流されてみるのも良い。
そんな風にその瞬間瞬間の体験を
受け取れたら、世界はどんなに豊かに
広がっていくでしょう。
ある価値観に固執するあまりに
失うもの、見えなくなるもの、
受け取れないものがどれほどあるか。
若い頃は、とにかく
何かしていることに意義を感じていた
けれど、あまりにもそれが行き過ぎて
心身を壊してばかりいた気がします。
不足感や無力感、無価値感が病的に
自分を蝕んでいたんだと思います。
それから紆余曲折あり、
うん十年生きてきて、別の物差しを
持つことで、人生の違った方向性の、
違ったレイヤーを意識するようになりました。
燃えるような情熱で魂を輝かせながら
生きる人生もあるでしょうし、
一見静かに在るように見えて、
驚くべき深淵さを探求する人生も
あるでしょう。
ふんわり、おっとり、のんびり歩む
人生も良し。
若々しい若木も長じては
やがて枯れて行きますが、
枯れて行く中でこそ辿り着く境地も
あるのではないでしょうか。
もしそのときに、
若々しい力強さが最良最高である
と言う価値観しか持ち合わせて居なかったら、
その時代に体験できるはずだった
素晴らしい境地も、ただの虚しい、
価値のない時代になって
しまうかもしれません。
これまで歩んできた人生で体験してきた
あらゆることを、どれだけ味わい、
消化・昇華できているか。
その昇華・熟成具合によって、
その残渣が腐って悪臭を放つか、
枯れて味わい深い姿に極まっていくのかが
別れて行くのかもしれません。
いつまでも狭い価値観で
自分の人生を切り刻むのではなく、
理想とは違う人生でも、まずは
丸ごと良し!と受け取ってみる。
それから、全体をじっくり味わい、
消化していく。
まだまだ選り好みをしてしまって、
受け取り損ねているものがありますが、
味わい深く枯れて行けたら良いな、
と、そんなことを思いました。