最近、ハートを使うことに関して、
セッションやこのブログでも
お伝えする機会が多くありました。
セッションでは、逐一
その方がどのように意識を使って
何を感じているのか、というのを
リーディングしながら進めている
のですが、
ハートを感じてください
という誘導をすると、
頭でハートを探るような感じ方を
する方が結構おられるのですよね。
う~ん、そうじゃないんだけどな、
どうお伝えしたら伝わるんだろう
と、毎回、試行錯誤です。
ハートそのものを使う感じ方は、
例えば以前、真心を感じるのと
同じところを使う、というような
説明をしたこともありました。
まごころを感じるのは、
どうやっても頭ではできないですよね。
真心の温かさをじわ~っと感じる、
そこを使うのです。
あるいは、最近は
ハートに実際に手を当てていただいて、
手の温かさや重さの感触を感じる
その感覚で感じていただく、
と誘導してみたりもしました。
頭で探るようにハートを感じよう
とするときは、意識の重心が
どうしても頭部にありますが、
手をハートに当てていただくと、
大体の人が、その意識の重心が
ハートに降りてくるんですね。
そこからまた多少の調整は必要なのですが、
少なくとも、頭で感じようとは
していない状態になります。
色々誘導しながら、
現代人は、感じる時も、
こうも頭中心でものごとを捉えようとする
やり方が染みついているのだな、
とつくづく思います。
ハートを使ってものごとを捉える
という感覚が掴めると、
頭でそれをしようとしていた時との違いが
はっきりとわかります。
その状態で、人と向き合ったり、
何かを洞察したりすると、
触れられる情報の深さ、広さが
全然違うんですね。
本質を捉えられるのが
ハートの働きですが、
あらゆる能力は、このハートの働きを
ベースにして展開されるべきだと
私は思っています。
ハートは、私たちが
この世界でいかに在るべきか、
というのを教えてくれますが、
だからこそ、あらゆる知識や技術、
私たちの表現は、ハートの導きの上に
為されるものだと思うのです。
ハートの延長線上に展開された
あらゆるものは、そうでないものと
明確に、一線を画しています。
それは、単にフワフワと優し気で
甘い表現というわけではなく、
厳しさがあってもそこに清々しさや
どこか凛とした温かさ、真っ当さ
といったようなものを感じさせます。
ハートを使う感覚が身に付いてくると、
あらゆる判断の機会にハートの感覚を
確認するようになっていきます。
最終的に判断の決定打になるのが
ハートという感じになるんですね。
そう言えば、最近立て続けに
ハートの感覚を使えるようになっていきたい
とおっしゃるクライアントさんたちが、
同じ過ちを犯している場面に遭遇して
思うところがありました。
ハートの感覚を使って生きるというのは、
在り方そのものです。
完全に、自分軸なんですね。
そのクライアントさんたちの過ちというのは、
結局のところ、最終的に信じているのは
自身のハートではなく、他者の言葉、
判断だということでした。
つまり、根本的に他人軸のままだったわけです。
自分のハートの感覚に自信が持てない
というのは理解できるのですが、
だからこれが正しいのでしょうか?
と他者に聞くのは、ちょっと違うのでは
ないかな、と思います。
聞くのが悪いというわけではないのですが、
いくらそれを繰り返しても、その人は
ちゃんとハートの声を聞けるようには
ならないでしょう。
というのは、
なぜ自信が無いのか、
その理由を自分で徹底的に向き合い、
掘り下げることをしていないし、
間違うことの結果を引き受けてもいないので、
ただ単に、やっぱりダメだった自分の判断、
というところで終わってしまって、
そこから学びを掴み取って修正する
ということができないからです。
人に聞くのは悪くないけれど、
自分で自身の人生の最終的な責任を
引き受けて行く意識が無いと、
本当にはハートは使えないでしょう。
質問の仕方や求め方一つで、
その人の本質的な在り方が
見えてきますね。
今質問をしている時、
その問いは自分軸でしているのか、
他人軸からのものなのか、
を意識するだけでも気づくことが
あるかもしれません。
しっかりハートを使って
自分軸で居られるように
心して参りましょう。