普段何気なく過ごしていると
あまり気付かないことだけれど、
ふとした時に浮上してくる
何かの断片で、
あぁ、自分自身を赦していない
ところがあるのだな、
と気づくことがあります。
自分のどんな側面を赦していないのか、
人それぞれありますが、
かつて、何か大きな失敗をしてしまい、
以来、自身の力を発揮することを
封印している人もいれば、
道徳や倫理、コミュニティなどの
掟を破ったがために辛い目に遭い、
そういう自分をひどく責めているとか、
自分の行いで、誰かを傷つけてしまった
などで、その行いをきつく戒めているなど。
今生での出来事の場合もあるし、
人生をまたいで持ち越している
魂に刻まれた記憶の場合もあります。
いずれにせよ、
経験に伴う感情が癒されていないと、
自身の行為をひどく制限し、
人生の可能性を狭めてしまいます。
自分の中の赦せない要素を
徹底的に否定、拒絶し、
絶対にあってはならないものとして
封印してしまうのですが、
二度とそんな自分にならないように、
極端に触れることがよくあります。
たとえば、
罪を犯した自分を憎んでいると、
非常に厳格にルールを守ること、
社会規範から逸脱しないように
病的なまでに常識や世間体を重んじるとか、
いい加減でルーズな要素を戒めていると、
きちんとすること、几帳面で
きっちりしていないと気が済まないなど、
多少ではなく、
自分も周囲も生き辛くなるくらいの
強い傾向を見せることがあります。
そういう人の特徴として、
拒絶する要素に非常に強い嫌悪感や
憎しみすら抱いていたりする傾向が
しばしば見られるように思います。
自分の中で、そういう要素を
否定、封印しているので、
当然、その人の周囲には
そういう要素を持っている人が現れて、
心がかき乱されるということも
起こりがちでしょう。
自分の人生からそんなものは
消えて無くなれ!とばかりに
抹殺したいのに、避けようもなく
そういう要素が現れてしまうのですね。
自分が何かしらの要素に対して
強い拒否感、嫌悪感などを抱く場合、
そこに自分を知る大切な鍵が
隠されている確率が非常に高いです。
どうしてその要素をそこまで
拒絶するのか。
考えるのも、意識を向けるのさえ嫌
かもしれませんが、胸のザワザワや
嫌な感じをじ~っと感じて辿ってみると、
まだ心の奥底で癒えることもなく、
傷つき、膿みすさんだ自身の側面が
現れるかもしれません。
こういうところに向き合うのも
なかなかにきついことですが、
最も認めたくなかった自分を直視し、
対峙するのはとても大切なことです。
いかにそれを切り捨て、
そうではない自分になろうとしても、
きちんと対峙し、昇華させずに
先に進むことはできません。
必ず、逃げたかった自分が
差し戻されてきます。
きつく戒めたとしても、
戒めが必要であるということ自体、
まだ戒めが無ければ、そういう自分に
なってしまう可能性が生きている
ということなので、
本当に完了させたければ、
戒めが無くてもそんな自分にはならない
というくらいに、戒めの必要ない自分
になることです。
拒絶、嫌悪が激しいほどに、
まともに対峙するのは難しく、
がっちりロックがかかったように
なってしまいます。
意識を向けただけで
気分が悪くなったり、
怒りが湧いてきたりするかも
しれませんが、
既にそれが解放への糸口です。
その奥にある、
赦し難い自分がどんな姿であろうと、
しかと受け止める、と心が決まれば、
がっちりとかかったロックの先に
触れることが出来るでしょう。
きついところに触れて行こうとすると、
しばしば、マインドで考えることに
無意識にも逃げてしまうケースが
多いのですが、
考えるのではなく、
ひたすら感じたくなかった
感覚、感情を辿っていくのが
カギになります。
嫌悪を越えて、
きちんと状況を受け止め、
頭で反省するのではなく、
ジャッジメントしないで
純粋に感情を捉えて生きてあげます。
そうすると、
固く硬直していた心は
柔らかく解けていきます。
そうして初めて、
その出来事の本質が見えてくるんですね。
どれだけダメな自分、いけない自分を
戒めても、その固い心では
決して見えてこないものがあるのです。