人生には様々な出会いがあって、
心からの優しさや愛を与え、与えられる
ような関係もあれば、
激しい怒りや憎しみ、絶望の傷跡を
長く残すような、後味の悪い
関係性もあります。
願わくば、
生涯人を呪うことなく
人生を全う出来たらどんなに良いか。
そんな願いとは裏腹に、
出会ってしまう時は、
どうにも避け難く惹かれ合い、
出会ってしまうものですね。
自分という存在は、
自分だけではわからない
認識の死角があって、
自分とはこんな人間、という
セルフイメージとははるかにかけ離れた
要素を奥深くに隠し持っているものです。
ポジティブにせよネガティブにせよ、
強い感情を掻き立てる出会いというのは、
自分でも知り得ないような、
自身の奥深くに隠された要素を
否応なく引きずり出してくれます。
ものすごく淡泊な人間だと
思っていたとしても、覚えず、
情熱的な側面を引き出されたり、
そこそこ穏やかで善良な人間だと
認識していたのに、抑えがたい怒りに
身を焦がし、人を憎み、呪うような
自分になっていたり、
冷酷な人間だと思っていたのに、
どういうわけか、突き放すこともできずに
おせっかいを焼いてしまったり。
人との出会いは、
そんな思いもかけないような自分を
引き出させられることがありますね。
良い人でいたいのに、
なぜかあの人とかかわると
自分の嫌な側面が否応なく出てきて
自己嫌悪に陥ってしまうとか、
私自身にも覚えがあります。
自分が思っていたよりも、
もっと素敵な人間だった!というのなら
すごく嬉しいですが、
こんなにもひどかったんだ、
という側面が出てくると受け入れ難いし
がっかりしてしまいますね。
それでもそういう体験は、
自分を知るという意味において、
とても貴重なものなんだと思います。
そういう刺激でもない限り、
平穏無事に表面的な自分で満足して
そこそこ生きて行ったでしょう。
受け入れ難かろうが、前から知ってたし、
みたいな側面であろうが、
そういう要素に直面したとき、
どんな風にそれに対峙するのか、
なんだと思います。
そして、
そういう機会を与えてくれたことこそが、
その人と出会ったことのギフトなのです。
たとえば、あなたの奥底に
狂気のような激しい怒りと憎しみ、絶望
があったとして、
それを心の奥深くに封印して生きていたら、
生涯、そんなものを抱え込んで生きている
ことなど、気づかなかったかもしれません。
それらの感情は、
その出会いによって生じたものではなく、
もっと前から、あなたの中に既に
存在していたものです。
出会いは、それを浮上させるきっかけに
過ぎません。
そして、
それらを分離、封印するのではなく、
完全に卒業し、昇華させていくには、
どうしても、浮上させる段階が必須なのです。
だから、その人との出会いは、
あなたがそれらを本当に自身の内に
統合していくためには、
避けては通れななかった出会い
なのでしょう。
心の古傷を容赦なくぐりぐりと
ほじくられるのは、なかなかに辛いことだし、
浮上したものすごく狂暴だったり
残忍だったりする自分に直面するのは、
これもこれでキツイことですね。
それでも、自身のその姿から
目を逸らしてはなりません。
そして、相手の許し難い言動を
責めたくなる衝動、自分を悲劇のヒロインに
したくなる衝動に、飲み込まれないように。
魂が差し出しているのは、
そういうところじゃないんですね。
その、抑え難く暴れる感情のエネルギーの
マスターとなることです。
他人事のように、第三者的目線で
分離させるのではなく、
当事者として受け止めつつ、
自分から離れないようにして、
そのエネルギーが自分を通過していくのを
妨げないように。
そしてまた、
そんな自分を呪ったり嫌ったり、
蔑んだりしないように。
こういうプロセスは、
自分を含め、誰かや何かを責める方に
意識が向いてしまうと、
うまく完了しないんですね。
どんなに醜いと思えるような感情も、
それ自体に善悪はありません。
そんな自分ですら祝福できたとき、
あなたは人生の別のステージに
立っているでしょう。
どれだけ受け入れ難い自分を
祝福できたか。
それが、あなた自身の器の深さを
育てるのです。
あなたの出会いに、祝福を。