今日は、伝えることについて
色々思うところがあったので、
これについて書いてみます。
一口に伝える、と言っても、
何を伝えるのか、
どういう目的で伝えるのか、
伝える相手はどんな人たちか、
などによって、全然違った
伝え方になりますよね。
たとえば、
何か自分が良かった!素敵だ!
と思った感動を誰かと分かち合いたい、
伝えたい、という場合。
自分の感じたその感動、興奮を
思う存分表現して、それに響く人たちに
それぞれ、何かしら感じてもらって、
あとはその人たち自身で
考えてもらえばいい、
みたいな伝え方もあるし、
仕事のマニュアルなどだと、
厳密に押さえておくべき仕事の流れ、
ポイント、意義などを間違いなく
分かってもらい、
共通認識にしておかなければ、
要らぬトラブルや事故の元
になってしまいかねません。
また、何かのやり方、メソッド等を
学んでみたい、試してみたい、
というように求められるものが
ある場合は、
基本的なその枠組みをお伝えするのと
同時に、その人にとって有効なやり方、
今一番必要としているポイントを
その人の資質、能力、感性を見極めつつ
響くように、効果が出るように
お伝えしなければいけません。
一つ目の例の場合は、
伝えたものの使い方は受け手自身に
完全に委ねられているので、
伝える側は自分の伝えたいように
伝えれば良いのでしょうが、
後者のように、
受け手の中で起こる反応を注意深く見て、
ある目的、着地点に導く必要がある場合は、
伝える側の観察眼や対応能力が
問われますね。
その際も、
相手の中に深く入り込み過ぎて
方向感覚を見失ってもいけませんし、
相手の中で巻き起こる様々な
エネルギーに飲み込まれても
いけません。
それらを同時にクリアしながら、
適切な落としどころに
導いて行くわけです。
その適切な落としどころの
設定の仕方も、何が目的だったのか?
というところを忘れずに。
自分が、伝え切った!
言いたいことは全部言ったぞ!
というところが目的なのか、
相手が欲しいものをそこそこ
満足のいく程度に得られたという実感を
持てるところを目標とするかでも
随分違いますよね。
伝えるというのは、
相手があることなので、
相手の満足を中心に据えるなら、
自分の欲求を少し抑えなければ
いけないかもしれません。
こういう調整も、
自分の中にある程度の余裕が無いと、
相手に合わせて、というのも
なかなかにテンパってしまって
難しいものです。
ついつい力み過ぎて、
相手をギリギリと締め上げていたり、
置いてけぼりにしていたり、
あるいは、受け手である人に
様々振り回されて結局、
思うように伝えられなかったりと、
まぁ色々失敗はあるものです。
私自身、今まで
瞑想会を始めワークショップや
様々な講座を開いてきて、
一人一人に向き合いながら
全体を見てまとめていく
というのは、なかなかに大変だな、
といつも感じていました。
深く濃密に伝えたい、と思ったら、
やはり人数は多くはできないし、
多くしたら、それはそれで
どうしても内容の密度は薄まります。
薄まった場合、伝えたいものが
相手に受け取られた時に、
どこまでの有効性、実効性を
もつだろうか、というのの
兼ね合いもありますね。
薄まりすぎて使い物にならない
くらいに歪んだり、実効性がない
ものになるくらいなら、
意味がないですしね。
伝えるということを思う時、
そもそもなぜそれを伝えたいのか、
伝えることで何がどうなって行くことを
目標とするのか。
伝えっぱなしではなく、
その先に繋がっていく動きまで
意識しないと、ただの自己満足で、
伝えられた側はそれに付き合わされた
みたいな感覚になってしまいます。
どうせなら、共に響き、
何かしら互いに有意義であったと
感じられるような場が
生まれると良いですね。