以前、とある国際的な会議で
当時の美智子皇后がスピーチの中で
「頬」という詩を引用して注目された
竹内てるよという詩人がいます。
生まれて何も知らぬ 吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな
という、何とも胸に突き刺さる
強烈なフレーズで始まるこの詩を
私はどこで最初に知ったのか、
定かには覚えていないのですが、
最近、セッションをしている時に、
この詩が殊に
脳裏に浮かぶことがあります。
赤く小さい頬をした幼いわが子を見て
絶望の涙を流しそうになる母とは、
一体どんな状況に在る女性でしょうか。
そんな中でも、この子が
いつ人類のためのたたかいに
燃えて輝くかもしれない。
だから、
自らのよわさといくじなさのために
母よ、絶望の涙を流すな、と。
(原文はリンクからご覧くださいね)
人類の歴史の中で、
どれだけの母が、このような思いで
我が子を育ててきたかと思うと、
この詩を読むたびに、
胸に詰まる思いが湧き上がります。
私には子供はいませんが、
セッションなどでみなさんの中に眠る
可能性を見るときに、
この母の思いには到底及びませんが、
私自身の力不足や不安と言った
「よわさといくじなさ」のために、
状況の困難に挫けて自身の職責を放棄し、
諦めることが無いように、
と自分を奮い立たせるのです。
とかく表面的な状況を見て、
ネガティブなジャッジメントを
してしまいがちですが、
けれども、向き合うべきところは
そこじゃないですからね。
もっとその方の、
奥深い可能性をしっかりと見て、
それを引き上げられるように、
ご本人が、それに触れ、
生きる力を奮い立たせられるように、
セッションを組み立てていくのが
私の仕事です。
みなさん、お一人お一人、
置かれた状況も違えば
背負っているもの、抱えているもの、
魂の願いも違います。
どうしたらその方の感性で
ピンポイントに響くのか、
どうしたら壁を越えて行けるのか、
様々にアプローチをしながら、
試行錯誤の連続です。
伝わっているようで、
違う解釈をされているときもあるし、
一つ山を越えたと思ったら、
別の逃避先に落ち着いていることも
あったりもします。
様々に展開する状況に応じて、
軌道修正、微調整をしつつ、
その方ご自身の魂の願いに
自分で触れるよう、
働きかけをしているのですが、
自分の働きかけが、
必ずしもうまくいっていないように
見える時、自身の無力さに
打ちひしがれる時も、
まだまだあったりもします。
けれども、
たとえどれだけ自分の力不足で
今目に見える変化が起こらなかった
としても、
いつか未来にこの方の可能性が
開いて行くそのときのために、
出来ることは惜しまず、
やっていこうと思うのです。
ものごとにはタイミングがあって、
今はまだ芽吹いてもいないかも
しれないけれど、
けれども可能性の種は、
厳然としてその方の中に
あるわけです。
その種を大切に、
未来のために注ぐべきものを
注いでいこうと思うのでした。
植物の種の中にも、
様々な発芽条件を設定している
ものがあって、
寒い冬を経験しないと
発芽しなかったり、
太陽の光を浴びることで
芽吹く好光性種子もありますし、
また、山火事などで焼かれて
芽吹く火災感受性種子なんていうのも
あったりします。
私たちの中に眠る可能性も、
一見過酷な状況を潜り抜けることで
発動するものも、あるのかもしれませんね。
どんな状況でその方の可能性の種が
開いて行くのか、何となく感じることも
ありますが、
たとえばその方が極寒の冬を
越えていける力を見て取り、
手を出さずに見守れるかとか、
迫る炎に飛び込んでいくことを
励ますことが出来るかとか、
適切にその方の資質を見て、
自分がその時すべきことをできるよう
余計なことをしてしまう自身の種に
内側で同時進行で
対処していたりもします。
あちこちに様々な種があって、
大変ですね。笑
けれども、
可能性の種に、絶望の涙を落とさぬよう、
日々精進していきたいと思うのでした。