人生を生きていると、
多かれ少なかれ、日々何かしら
辛いことがあったりします。
そんな時、私たちは
その辛さを感じないようにしたり、
無かったことにしたり、
意図的に解釈を歪め、すり替えたり、
あるいは、
そんなことは大したことないのだとか、
そんな風に感じる自分がおかしいのだ等
ありとあらゆる方法で
その苦痛を何とか和らげようとします。
そのどれもが、一時しのぎに過ぎず、
結局は大きな副作用を伴って
苦しみを長引かせることに
なります。
なぜそういうことになるのかと言うと、
それらは自分に対して、嘘をつく
ことになるからです。
あるものを無いといい、
すごく辛かったのに、そんな自分の感覚を
疑い、否定する行為は、著しく
自分の尊厳を傷つけます。
こういうことを自分にしていると、
鏡の法則を通して、周囲の人が自分に
そのような態度を取るようになります。
誰かが自分の気持ちをまともに取り合わず、
無かったことにして黙殺するとか、
お前がおかしいのだと言ってきたり、
軽く見て大切に扱わない等は、
まさにそういうことなんですね。
人から軽く見られる人は、
自分自身に対する扱いがぞんざいで、
自分を大切にしていません。
そういう在り方は、他者に
自分なんてこの程度の存在なんです。
どうぞこの程度で扱ってください、
と言っているようなものです。
自分の気持ちをとても軽く見ているので
自分との約束も守りません。
たやすくその言を翻し、
自分自身を傷つけます。
そしてその態度はそっくりそのまま、
その人が周囲にしている態度なのです。
だからこの人は、誰からも信用されません。
何を言っても、その言葉に
重みが無いんですね。
言葉に重みがある人は、
そこにその人自身の血肉の通った
体温の感覚があり、嘘のない響きが
ありますね。
同じフレーズを言っても、
言葉の軽い人は、その体温の感覚が無く
とても空虚でスカスカな感じがします。
そういうところ、見えなくても
人は敏感に感じ取ります。
中には美辞麗句に弱く、
容易く騙されてしまう人もいますが、
そういう人は、自分自身が空虚で
スカスカなので、表面しか見られない
感性だから、見分けられないのです。
自分という存在を大事にすることは、
こういう感性を育てていくことにも
通じています。
自分を大事にすることのベースが、
嘘をつかないことと、誠実で在ること
ですが、なぜそれが大事かというと、
嘘をつくと、自分を歪めるからです。
一つの嘘を支えるのに
百の嘘をつかなければならない
とよく言われますが、
一つの歪みを自分の中で成立させるには、
連鎖して全てが歪んでしまい、
そうなるとあらゆる判断が狂うんですね。
故に、鋭敏な感性・感覚を磨くには、
自分の感じていることに嘘をつかない
ということが出発点なのです。
だから、自分の感じているものは
おかしいのだと疑ってみたり、否定したり、
無かったことにするのは、
自分の存在そのものを否定することに
等しいと私は思います。
それが何であれ、まずは在るがままに
受け止めること。それからどう対処するか
を決めれば良いのです。
感覚が鋭敏になるほどに、
自分で自身の歪みや詰まり、不自然さに
段々と気付けるようになっていきます。
そのことが、
自分がいかに生きるかを導く
指標になります。
自分が何をするとクリアになり、
どういう在り方でいる時に歪むのか。
毎瞬の状態に、いかに応答し、
対処して行くのかを決めていく。
その判断、応答の積み重ねが
その人の生き様になっていくでしょう。
自分でそれが出来るようになっていくと、
自分の人生を自分で創造している
パワーの感覚が感じられるようになり、
自由と同時に、責任を果たしている
充実感が湧いてきます。
そのとき人は、
自分自身に誇りを持てるように
なっているでしょう。
それが神の末、人の道だと思います。