あるものをあると認めることについて、
今まで感情解放ワークの視点から
すごく大事なポイントだと
考えていました。
たとえば、
自分の中に見たくないもの、
受け入れ難いものを見つけてしまったとき、
見なかったことにする。無いことにする
ということをしてしまうと、
癒すことも変えることもできないままに、
触れることのできないフィールドに
分離された状態で残り続けてしまいます。
それが無意識の底から、私たちの日常に
様々な影響を及ぼしているわけですが、
だからこそ、その存在を無きものにしないで
認めることが大切なのです。
ただ、今回ふと思ったのは、
そういうレベルばかりの話ではなく、
本当はちゃんと愛されていたのに
それを認められない、
受け入れられないとか、
必要なお金はあるのに、恐れから
お金が無いと思い込んでいて、
今あるお金が見えておらず、
感謝もできないし不平不満に
終始しているとか、
大切な人と過ごす時間が、
今この瞬間にはあるのに、
もうすぐそれが失われる未来に囚われ、
受け取ることが出来なかったり、
ちゃんとやるべきことをやり遂げる力が
自分の中にはあるのに、
様々な理由からそのことを
認められなかったり。
落ち着いて今この瞬間にいれば
確かにあるとわかるし、受け取れる
はずのことなのに、
どういうわけか、求めているはずのものが
今ここにあることを認められずに
自ら苦しみに囚われに行くことが
多々あるな、と思ったのです。
本当に、おかしなことですよね。
無いということは、
しばしば恐れを掻き立てますが、
何やらその恐れは、
私たちの意識を盲目にさせる
混乱のスイッチでもあるようです。
この恐れのエネルギー、
私の中には質感の異なるものが
幾重にも重なって存在していて、
それぞれを辿っていくと、
私の日常でそこはかとなく漂っている
不安感や心配のベースにも
なっているようでした。
その感覚というのは、
頭が真っ白になる感じ、
心臓が縮み上がるような感覚、
体の中心が凍り付くような感じ、
お腹の底にず~んと響く嫌な感じなど、
実にバリエーション豊かですね。
こんなにも恐がって固まっている
カケラ君たちを放置して、
これまで生きてきたんだなぁと
しみじみ思いました。
長いこと放置してごめんね、
と謝って、お迎えに行きました。
すごく苦手な感覚だったけれど、
少しずつ、じわじわ受け止めていたら
随分楽になりました。
固まっているカケラ君は、
ほぼ息ができていないので、
彼らがしっかり呼吸できるように
してあげるのが大事です。
恐れを掘り下げていて気付いたのですが、
入り口が何であれ、恐れを深く見ていくと、
いつも根深く残っているのは
肉体を苛まれる苦痛への恐怖でした。
いつぞやの人生で、
虐待や拷問を受けたりしたことが
あったのか、血の気が引く感覚とともに
浮上してくるそれは、ものすごく恐いですね。
人間性の尊重という眼差しの一切ない扱い
に対して、悲しみとか悔しさ、怒り以上に
私は恐怖を感じるのですが、それは
こういうところから来ているのかもしれません。
自分の体を良~く感じていくと、
無意識にもヴェールをかけたように
感覚を遮断、もしくは鈍くしている
ところがあって、その感じを辿っていくと、
埋もれていた感情や感覚がさらに
出てきました。
こういうものは、蓋をしている時は
重苦しい感じですが、見つけられただけでも
ホッとして軽くなる感じがありますね。
そうして、その統合が一段階したところで
見ていかなければいけないのが、
暴力性や狂気によって傷つけられた
記憶があるということは、
自分の中に、反対の要素、
つまり加害者の要素もあるということを
意味しています。
こちらの統合もやらないと、
不完全になります。
長くなるので今日はこのくらいにして
進捗を確かめてみると、
まだ宿題も残っているので途中だけれど、
随分恐れの感覚が薄くなりました。
今あるものに目を向けられるかどうか
見てみると、ワークを始める前よりは
認められる感じになっています。
さて、宿題はぼちぼちやるとしましょう。