自分の軸を持つとか
軸を通すとかいうことについて、
思うところがあったので書いてみます。
精神的に揺らぎやすい人、
人に影響されやすくて自分が無い
という自覚がある方は、
どうにかして自分軸を持ちたい
ということを思っていらっしゃることが
多いように思います。
そういう思いを持って試行錯誤している中で、
体の中心に一本、棒を通すような意識を
持つことで自分を肉体的、精神的に
真っすぐにしようとされる方もあるし、
自分軸、と言いながら、どこかからか
調達してきた何かや誰かの思想をそのまま
取り込んで、これを軸にして自分を
支えようとしてみたり、
中身はスライムのようにグダグダだけれど、
セメントの型枠みたいなものを
見せたい自分の形になるように作って、
それで自分を支えることで、
一見、自分軸があるように見せている
という方もあります。
様々な人の心の在り様を拝見して、
なるほど、そういうアプローチも
あるのか、と思ったりもするのですが、
上記のやり方は、
私がお伝えしている在り方とは違うし、
表面的にはうまくできたように思えても、
その在り方で自分を深めていくことは
できないだろうと思います。
遅かれ早かれ、ボロが出るか、
行き詰ってしまうでしょう。
上記のやり方に共通して言えるのは、
自分という存在の核心を捉えていない
ということです。
(何だか偉そうなことを言ってしまって
大丈夫だろうかと、自分でも
ちょっと心配になりますが。。。笑)
外から柱を持ってくるのは論外としても、
取ってつけたようなものを自分の軸
にすることはできません。
軸というと、棒のようなイメージを
どうしても持ってしまいますが、
すっと通るものができるのは、
自分の核心を掴んだ結果、通るわけで、
結果だけを作ろうとしてもダメなのです。
元を掴まないとね。
そこが、なかなか伝わらないのだな、
ともどかしいところではあります。
多くの人は、表面的なところばかり見る。
どうしてそうなるのか、というところを
辿っていけば、自ずから道が見えてくるのに、
そういう見方をする人は少ないんですね。
だから、問い方が大事だと言うのです。
正しい答えを導き出すためには、
正しく問わなければならない。
結果ばかりしか見ない人は、
まず問う習慣がないですね。
正しい答えだけくれ、という人には、
結局、それを示されたとしても、
自分でそれを「正しい答えにする」
力が無いのです。
なぜかと言うと、つまりその人には
道理が見えていないからです。
道理とは、理(ことわり)の道です。
道を辿ってその在り様になっている。
その道が見えないから、結果だけ見ても、
正しく再現できないし、結果の意味も
理解できないのです。
だから、同じようにまねてみても、
全く別物になってしまう。
ものの道の修練では型というものがありますね。
型は、道理を知るための最低限のガイドライン
のようなものだと私は思っているのですが、
ガイドラインそのものが重要なのではなく、
それを何万回、何千万回と繰り返す中で、
自分で道理を掴んでいくんですね。
そういう意識で道理を掴んでいかなければ、
型の本来の役割が果たされないと思うのです。
そして、その道理が見事体得できれば、
同じ動き、同じ形を作っても、
それは型を越えて、生きた道理を
体現したものになるでしょう。
そうしたら、その人は分野を越えて、
あらゆるものの中に道理を見、
即座に本質を掴んで理解し、
展開させていくことが出来ます。
硬直した棒や異物を自分の中に
立てなくても、どんな状況の中でも
自在に自分の内からエッセンスを
表現していくでしょう。
そういう人を傍から見るとき、
その人には素晴らしい軸が通って
見えるのです。
ゆめゆめ、結果を本質と
取り違うことなかれ。