私たちは、何かや誰かをジャッジメント
するとき、そこには何かしらの感情が
伴っていると思います。
多分、その感情は
ネガティブなものでしょう。
ザワザワと落ち着かない気持ちに
駆り立てられるように、
対象を裁き、非難しているのでは
ないでしょうか。
試しに、
ジャッジメントしているその対象に、
ジャッジメントしないでじっと
向き合ってみてください。
落ち着かなくて、
居てもたってもい居れなくなる
のではないでしょうか。
それが、私たちをジャッジメントに
駆り立てている感情のエネルギーです。
ケースバイケースで、
その感情は例えば恐れだったり
憎しみだったり、傷ついた心だったり、
怒り、悔しさ、惨めさだったり
するのかもしれません。
ジャッジメントは、
どこかひどく攻撃的なエネルギーを
感じるのですが、それはその行為の原資が
こうしたネガティブな感情のエネルギー
であるからかもしれません。
裁かれた対象は多かれ少なかれ
傷つくでしょうし、
裁いた側の心の混乱は、
一時的には緩むでしょうが、
根本的に癒えることはありません。
自分は常に誰かや何かを裁いている
という自覚のある人は、
一度それをしているときの
自分の気持ちを掘り下げてみると
気づくことがあるだろうと思います。
心の奥に、深く突き刺さったトゲが
見つかるかもしれませんね。
そうしたところを丁寧に手当てして、
癒えたとしたら、多分今のように
攻撃的なエネルギーで常に誰かや何かを
裁いている、ということは
なくなるだろうと思います。
心や体に傷を負ってそれが痛むと、
誰しも穏やかな心ではいられないものです。
ささくれた心は、
手当てが必要だよ、という
単にそれだけのことで、
存在自体が劣っているとか、
悪だとかいうことではないのです。
にも拘らず、しばしば私たちは、
傷ついて苛立っている心にさらに鞭を打ち、
忌み嫌い、排除しようとします。
ジャッジメントしてしまう自分をさらに
ジャッジメントして消し去ろうとする。
その矛盾、パラドックスにはまって
ますます自分が嫌いになっていくという喜劇。
排除しようとしたものは、
受容されるまで繰り返し差し戻されるのです。
だから、いけない!消え去れ!
と思えば思うほど、嫌というほど
それを痛感させられる出来事が
返って来るんですね。
そういうときに、やるべきことは
排除することではなく、
傷の手当です。
そこ、勘違いしている人、
多いですよね。
自分が怪我をして苦しんでいる時に、
あっち行け!目の前から消えろ!
なんて言われたら、
どんな気持ちになりますか?
悲しくなるし、ひょっとしたら、
殺意くらい湧いてくるかもしれません。笑
実際、それに近いような態度を
身近な人からされた経験のある方も
いらっしゃるかもしれません。
それはつまり、
自分が自身に対してやっていること
そのものなんですね。
自分を受け入れるということを
このブログでも何度も繰り返し
書いてきていますが、
念仏のようにそれを唱えたところで、
上記のようなことをしていたら、
全く意味がありません。
自分を愛そう、受け入れようと言う前に、
自分に対する無関心を改め、
心の傷の手当てをすることです。
ただしこれは、自己憐憫に浸ること
ではありませんよ。
分離した痛みをちゃんと受け止め、
心と体と魂で生きて統合することです。
そういう実際の行動が、
自分を大切にし、愛する行為なのです。
自分を愛するという概念が、
自分を癒すわけではないんですね。
実践した分だけ、
自然に自分への愛が深まり、
健全な自尊心が育っていきます。
傷ついてささくれ立っていた心は
穏やかになり、他者に対しても
努力してそうなろうとしなくても、
優しく親切にしているでしょう。
悲しみや虚しさを押し殺して
優しい自分を演じなくても良いのです。
自分が満ちたところから、
大らかに、自分を表現して行きましょうね。