後悔や自責の念は逃避だと
感情解放ワークの世界観では
お伝えしています。
なぜなら、いくら後悔しても、
自分を責めても、何ら生産的な力を
生むことはなく、また、自身の行いの
償いにもならないからです。
そしてまた、その行為をするとき、
その人は自分自身の行った行為にも、
その結果にも直面できておらず、
ただ自身の内に湧き上がる
ざわざわとした落ち着かない感情に
飲み込まれています。
後悔や自責の念は、
ひとえにこの耐え難い感情を誤魔化すために
起こる心の動きです。
セッションだと、これらが起こった時は、
一切それらを止めて、ただひたすら
湧き起こる耐え難い感情を受け止める方向に
誘導します。
ものすごく気持ち悪いし辛いのだけれど、
それから逃れようとしている限りは、
前には進めないからです。
何年、何十年と自分を責め続け、
後悔し続けている人は、
ごまんといます。
そういう人生を送るのが嫌なら、
臓腑を焼かれるような苦しみも、
引き受けるしかありません。
そうして、自身の行為の結果に
きちんと対峙して、受け取るべきものを
取りこぼすことなく、受け取るべきです。
そういうことが本当にできたとき、
その苦しみによって焼かれた心身が
変容を起こすのです。
そうして、二度と過ちを犯さない自分、
そういう状況に陥る種のない自分に
なるわけですね。
言い換えれば、
そのくらい苦しい出来事というのは、
自分を矯正的に変容させるチャンス
なのです。
昨日も、だから肚を括るしかないのだと
お伝えしました。
そういう観点から見てみると、
いつまでも後悔や自責の念に囚われている人は、
たとえ別の選択をしていたとしても、
結局は同じように後悔し、自分を責め続け、
愚痴を言い続けているのだろうな、
と思います。
運が悪かったから、魔が差したから、
その他諸々の外部の理由で、
たまたまそういう状態になっている
わけではないのです。
その人は、なるべくして、
そうなっている。
自身の在り方の問題なのです。
逆に言えば、
言い訳せず、自身の行為の結果を引き受け、
それを昇華させながら生きている人は、
何を選んでも、どこにいても、
誰と一緒に居ても、
やはり清々しい生き方をしているだろうと
思います。
自分で、あらゆる出来事を糧として
立ち上がり、何事かを成していく人は
後悔しながら愚痴を言っていたりは
しないでしょう。
そうは言っても、自分はきちんと向き合えない
と思う方もあるかもしれません。
誰しも、本質的に
自分の人生に向き合う力がない
ということはないだろうと
私は思っています。
ただ、向き合う意志が本人にあるのかどうか、
(顕在意識的にも、潜在意識的にも)
という問題ではないかな、
という気がします。
向き合う意志があるのなら、
あとは心の使い方の問題かなと。
いつ、自身のどんな心の動きに気づいて
どう対処すればいいのか、というのを
知っているのと知らないのとでは、
やはり心の力を有効に使える
度合いが大分違ってきます。
たとえば、
心の中にざわざわと湧き出てくる
落ち着かない気持ちに無意識で、
そのまま飲み込まれて溺れ、
思考がグルグル堂々巡りになるか、
湧き出てきたネガティブな感情に気づいて
意識的に捉え、受け止め、統合作業をして
しっかりと目の前の現実に主体的に
応答できるか、という違いです。
人は、心が浮足立つと、
そこに魔が入り込んできやすいので、
大きい目で人生を振り返った時に、
決定的な分かれ道で選択を誤っている
というのも、そういう時なのです。
だから、追い込まれた時に
自分自身の人生に踏みとどまっていられる
ということがすごく大事なんですね。
そういう苦しい時のプレッシャーに
耐えて踏みとどまれるテクニックが
感情解放ワークにはあるのです。
目の前の現実に対処できる力を
引き出して、実際にどうにか対処できた
という経験は、自信をもたらし、
ひいては自尊心にもつながっていきます。
私たちは、自分が思うほど
弱くもないし、力のない存在でもないのです。
もっと力強く、誇り高く生きて良い。
あなたの歩む道に、光在れ。