春分点を超えて、
新たな歩みのスタートです。
自分の思うところまで行けても、
行けなかったとしても、
節目を大事にして歩みを進めることで、
自分の向かう先を意識して
大きな方向性を整えていくことが
できます。
自分の未熟さに飲み込まれて
不貞腐れることのないように。
逃げることなくそれに対峙する
強さを養うことです。
創意工夫と探求ですね。
そのような苦しい中でも
歩み続けることができるのは、
それが本当に自分の命の道だからです。
取ってきたような借り物の道では、
本当に打ち込むことはできません。
そしてまた、道を歩むのは
スマートに、うまくやることが
人生の目的ではありません。
もちろん、順風の中で
自身の表現を喜びとともに発露させるのも
人生の一つの側面ですが、
自分を見失い、葛藤する中で、
いかに生きたのか、
そこで何に触れ、何を見出し、
何を紡いできたのかが、
自分自身を昇華させていく糧
となります。
自分自身に、根を深く張ること。
自分を否定し、自分から逃げていては、
いつまで経ってもつんつるてんの
自分です。
自分にも向き合い切れなくて、
どこでどんな偉業を成し遂げよう
というのでしょうか。
自分を通り越して、
何か高きもの、尊きものに至ろう
とする人は多いですが、
神なるものは、
自身の深奥に坐す故に
それをしている限りは
成就はないのではないかな、
と私は思います。
また、真に自分を生きることと、
好き勝手に生きることを
混同されている方をしばしば
見かけるのですが、これらは
同じではありませんよね。
自分を生きたら、エゴになってしまう。
と、霊性の道を歩む人には
よく聞かれる言葉ですが、
それは、ハートの導きに繋がっていない
状態で、欲を暴走させて生きるからです。
人は、様々な瞬間に導きから離れ、
マインドの世界で頭によって
あれこれ行動したり判断したりします。
たとえば、
心身ともにキツくなってきたとき。
焦っているとき。
欲に飲み込まれたとき。
不安に煽られたとき。
自己嫌悪に陥ったとき。
快楽の誘惑に負けたとき、などなど。
自分の判断、行動の瞬間に
ハートとともに在ったのかどうか、
注意深く在りましょう。
意識を向けても、
よくわからないこともあると
思いますが、
それでも、まず聞く、という習慣、
姿勢をとることはとても大切だと
思います。
ハートの導きとともに生きることは、
正しい方向性、手段を選択するうえでも
大事だけれど、
自身の持てる力を正しく使えるように
なる上で、どうしても避けては通れない
ことなのです。
魔は、導きから離れた瞬間を
引っかけていきます。
古今東西、どれだけ素晴らしい
才能を持った人物が、力を誤用し、
心身、魂に深い傷を負って
自身の力を封印したでしょう。
そうして、自分は無力だと信じて
生きている人も多いのですが、
つまるところ、
力を正しく使う力量がない、ということが
ネックになっていることがほとんどです。
力の誤用の魂の記憶があるのなら、
癒せばよろしい。
力量がないなら、つけたらいい。
力があるということは、
必ずそれを扱うようになれる
可能性がある、ということなのだから。
自分自身に深く向き合い、
あらゆる要素を昇華させていく
プロセスを通る中で、
あなたは持てる力を存分に発揮できる
力量を備えた人間に変容していくのです。
よくよく、自分を探求するように。