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さて。
そうありたい、そうであってほしい
理想の概念を固く信じる信念と、
実際にそれに触れてリアルに知っている
ということは違います。
けれど、セッションや瞑想会などで
みなさんの意識をチェックしていくと、
前者なのに後者だと認識している方は
少なくないように拝見します。
概念は、リアルの代わりにはなりません。
ここは厳密に区別しないと
いけないポイントです。
理想の概念を固く信じる信念を持つ人は、
しばしば、リアルに直面することへの
恐れを持っているケースが見られます。
たとえば、
自分には生きる価値がある、
愛されているという概念を
固く信じようとする人は、
反対の
自分には生きる価値がない、
愛されていないかもしれないという
深い恐れを持っていることが
あります。
自分は愛されているという信念が
真実であるなら、信じなくても、
本当にその事実に触れ、
知れば良いだけなのですが、
もし自分に生きる価値が無かったり、
愛されていないのだと知ってしまったら、
絶望してしまう、崩れ落ちてしまって
立ち直れない、と恐れるあまり、
真実に直面できなくなっているのです。
つまり、
真実に直面する恐れを回避するために、
マインドの信念に逃げているのです。
マインドで解釈しようとすると、
ワークも独りよがりなものになって
うまく行かないのは勿論なのですが、
日常でも、相手をよく見ないで
自分の思いで突っ走るような行動を
取りがちだったりします。
リアルに知るということは、
解釈とは違います。
リアルに触れようとしないで
常に触れないところから解釈して
理解しようとするのは
なぜでしょうか。
そこに、結構根深い構造が
あったりします。
リアルに触れずにどれだけ
信念を固くしても、
所詮それは砂上の楼閣。
一旦揺らげば、脆いものです。
先日も書きましたが、
真実はこの上ない人生の妙薬でもあり、
劇薬でもあります。
それは、容赦なく嘘偽り、幻を
打ち砕くが故。
真実を選ぶことができない、
そこに拠って立つことができない
ということは、自分が何を選んでいるか、
よく認識することです。
内なる神に触れたいという人は
多いけれど、感じること、
真実に直面することから逃げていては、
触れることはできません。
人生の神秘に触れるということは、
何かド派手な覚醒体験をする
ことよりも、
実は、日々のこうした自身の在り様、
一つ一つの選択の軌跡の方が、
ずっと本質的な神秘につながっていく
と私は思うのですよね。
いずれにせよ、恐れがあるということは
その奥には何らかの傷があるのです。
インドの聖者ラマナ・マハルシが
「恐れは過去の痛みの記憶」と言うように、
癒されるべき何かがあるわけです。
つまり、
愛されないことを恐れている
ということは、既に愛されなかった
体験の記憶があるわけです。
その痛みをしかと抱きしめに
いかなければいけませんね。
変な理屈をつけて納得させて
蓋をするのではなく、その体験をした
理由を知り、自身の在り方を改めて
初めてその痛みが癒え、恐れが消えます。
これが種の回収です。
そういう作業を飛び越えて
マインドの信念をどれだけ固めようと、
真実には至らないということを
知っておきましょう。