昨日は注文していた位牌が
仕上がってくる日だったので、
引き取りに行ってきました。
出来上がった位牌を確認して、
丁寧に包んでいただいたのですが、
二十数年前に亡くなった父と
一緒の位牌に収まって、何とも
感慨深いものがありました。
父亡き後の人生は、母にとっては
どんな時間だったのだろう
と思います。
生前、母が起居していた部屋の時計は、
ずっと父が亡くなった時間のままでした。
掃除のときに、私が勝手に
直してしまった時があったのですが、
すごく怒られて、母はまたその時間に
戻していました。
その時点で、もう十数年の月日は
経っていたのですけれどね、
母にとっては、あの日から時間は
ずっと止まったままだったのかも
しれません。
だからこそ、母が亡くなった日に
私はその時計を再び直して、
電池も入れ直しました。
日めくりも、めくるようにしています。
ここで時間を止めてはいけない、
と思って。
母は向こうで、父に会えたのでしょうか。
臨終を告げられた病院の救急救命室から
霊安室に移動するストレッチャーに
ついていく途中、
私はきょろきょろと周囲を見回して、
きっと母はこの光景をどこかから
眺めているんだろうね。
父はちゃんと迎えに来たんだろうか?
と弟と話していました。
(私は幽霊とかは全く見えないので)
新しくできたこの位牌には、
まだ御霊は入っていません。
来月の四十九日の納骨の時に、
父の位牌と、母の白木の位牌を
持って行って、お坊さんに御霊を
移していただきます。
それまでに、仏壇を掃除しなければ。
今はお骨がまだ家にあって、
そのお骨が安置された祭壇に朝晩、
挨拶し、今日はこんな一日だったよ
と報告しています。
日が経つにつれて、遺体から
お骨になって、位牌になるという
段々抽象度の高い姿に否応なく
なっていくのも、心情的に、
変化がありますね。
そうして少しずつ、
日常にソフトランディング
していくのでしょう。
時間というのは、非情なまでに平等に
たゆまず流れて行くものですが、
時にそれは、有難い恩寵でも
ありますね。
しばしば人の心はその流れに逆らって、
歩みを止めてしまうことがありますが、
そうなると、心の中で時間とともに
変化していくプロセスが進められず、
その状態のまま固まってしまいます。
辛さも悲しみも、癒えていくことも
統合されることもなく、心の奥に
埋もれてしこりとなっていくわけです。
心の中で時間を止めることで、
辛さを感じなくさせることは
ある程度できるけれど、
そのことで、機能不全を起こし、
別の苦しさを生むことになるのが
わかっているので、私は歩みを
止めることはしません。
悲しみも淋しさも喪失感も、
在るがまま、じっと味わい
受け止めていきます。
これが一番早く癒えていく
道じゃないかな、と思います。
感情に取り組んできて良かったな、
と思うのは、自分で自身を癒す力が
自分の中にちゃんとある、と
わかっていることと、
悲しんでも淋しがっても、
そういう自分の感情を恐れたり
ネガティブに捉えることはない
ということでしょうか。
泣けるときはちゃんと泣くし、
淋しい気持ちもはぐらかさず、
認めることができるし、
そういう自分の不安定さを
恐れてもいません。
人によっては、不安定な心情を恐れて
抑圧する人もあるでしょう。
でも、ちゃんとそれらを受け止められる
自分であったら、それで自分が崩れて
立ち上がれなくなる、なんてことは
ないのです。
そういう確信があるから、
どんな感情も、存分に味わえるんですね。
自分を誤魔化す必要もないし、
強がる必要もありません。
そのままでいい。
人生にそう何度もないだろうこの機会に、
自然なこのプロセスをじっくりと味わい、
観察しています。
父の時は、まだ感情の対処の仕方を
知らなかったけれど、今回は十分に
対処できる自分で迎えられて、
本当に良かったです。
この後の私は、どうなっていくんでしょうね。
よくよく味わい、
自分がどこまで何をできるのか、
観察していこうと思います。