さらにつづきです。
告別式前日の午後、
遺体を式場に移動するために
葬儀屋さんが家に来る予定でした。
母が家にいる最後の夜、
しみじみと母に語りかけました。
臨終のときも
感謝をたくさん伝えたけれど、
あのときよりも、もう少し
こみ上げるものがあって、
ゆっくり、自分の感情を味わいつつ
その時間を過ごすことができました。
しみじみ、形ある母の姿を見て、
今日までずっと母とともに生きてこられた
ことに、心から感謝しました。
父の時はそれほど日にちがなかったので
あっという間でしたが、母の時は
4日も家にいたので、たっぷりと
お別れができたのは良かったです。
遺体を葬儀屋さんで預かっていただく
ケースもありますが、私は母と家で
過ごせた時間が何よりでした。
母とは色々あったけれど、
いつも、母は私たち兄弟を絶対に
見捨てることはしない、という確信が
どこかにあって、
その通り、母はいつでも私たちを
心の中ではしっかりと抱きしめていて
くれたんだと思います。
だから、色々なことがあっても、
私たちは道を誤らなかった。
そう思います。
母が逝った後も、近所の方も、
弟たちも、友人たちも、とても
温かく接してくれています。
それが本当にありがたくて、
この先も、色々なことがあるだろうけれど、
みんなで助け合って、ちゃんと
生きていけると思えました。
そういう安心感が全くなく、
不安だらけだとしたら、もっと今、
大変だったろうと思いますが、
母亡き後も、悪い感じはなくて、
きっとこれも最高最善の流れの中で、
これからもっと良くなっていく
一つの過程なのだと思えました。
そうして、告別式前日の午後、
いよいよ葬儀屋さんが家に来て、
母を棺に入れて、式場に運んで
くれました。
事前に注文していた兄弟、親戚からの花と、
部屋にあったたくさんの枕花、その他
お付き合いの関係から贈られた花で
とても素敵な祭壇になりました。
きれいに設置された会場を見て、
兄弟三人、しみじみよかったね、
と言い合いました。
そうして迎えた告別式当日は、
朝から雨で心配したのですが、
私たちが式場入りする頃には
すっかり晴れて、晴れ女だった母の
面目躍如といった風でした。
早めに式場入りして、
式場代金の支払いをしたり、
いらしてくださったお坊さんへの
お布施やお車代の支払い、その他、
焼き場の方たちへの心づけを
葬儀屋さんに渡したりと、
たくさんの現金の支払いが
ありました。この辺の準備も、
みんなで協力してできたので、
心強かったです。
お布施(お戒名、お坊さんのお給料)は、
宗教や宗派、お寺さんによっても
色々でしょうね。
ご家族で話し合って、お寺さんなどと
よく交渉なさると良いと思います。
どんな人にどれだけ、どんなお金を
お支払いするのかは、葬儀屋さんが
色々教えてくださり、
一般的なところはどのタイミングで
これだけ渡してください、というのは
案内してくれましたので、とても
スムーズでした。
葬儀では、親族席に座って
お焼香に来てくださった方々に
お辞儀をしていましたが、
お顔を拝見するたび、あの方にも
この方にも、何十年もお世話になったなぁ
と思い起こすことがたくさんありました。
最後に、今回は長男の弟が、
ずっと一緒に住んでたからということで
喪主を私に譲ったので、喪主として
ご挨拶をさせていただきました。
母は22でこの家に嫁に来て、
以来、父とともに店の看板を背負って
生きてきました。
父亡き後も、ほぼ一人で店を切り盛りし、
みなさんとともに泣き、笑い、様々に
語り合いながら地域に根差して
過ごしてきました。
母の名前は知られずとも、
店の屋号で呼ばれることも多く、
店は母の命そのものでした。
最後は本当にあっけなく
逝ってしまいましたが、
もとよりそれは母の願いでもあり、
母は生きたいように生きて、
望み通りの最後を遂げたのだろうと
思います。
何とかご挨拶を終えて
棺に会場のたくさんのお花をみんなで
入れてあげました。
その他、棺には本人が縫った
店の古い暖簾なども入れてあげました。
そうして、いよいよ出棺です。
喪主なので、私は霊柩車の助手席に
位牌を持って一人で座りました。
移動の間、20年前の父の時、
母はどんな気持ちでこの席に
座っていたのだろうな、
と思いました。
今の私よりも、不安と悲しみで
一杯だっただろうとは思います。
無言で焼き場まで、
式の余韻やあれやこれやの思いに
浸っていました。
つづく。