セルフワークで内観を続けていくと、
自身の眼差しが深く、洗練されてくる
に従って、
さらに気付くべきことが
余計に増えてくる、
ということがあります。
これが、探求に限りがない
理由なわけですが、
人生の苦しさをどうにかしようと
自分自身を見つめ始めて、ある程度
楽になったところで探求の足を
止める人と、さらに先に行く人の
2パターンがあります。
どちらが正解とか間違っているとか
ではないのですが、両者の違いは
何かと問われれば、
前者のパターンの人は、
探求は単に人生を楽にするための
ツールであり、目標が達成できれば
用は済んだわけなので、
それ以上を求めることは基本、
また何か人生が苦しくならない限りは
ないでしょう。
では、後者の人はどうかというと、
探求は既に人生の一部となっているので、
人生を歩み続ける限り
探求は自動的に続いていきます。
その人にとって探求は、
もはや何かを達成する手段では
ないんですね。
生きていれば探求してしまう。
人生のあらゆる瞬間が、
探求の材料なのです。
人生と探求に分離はありません。
探求者にとって、人生はまさに
神秘のワンダーランドです。
万華鏡のように、
深まるほどに想像をはるかに越える
世界がそこに展開されて行きます。
その神秘に魅せられるからこそ、
歩みを止めることができないのです。
別に修行しなければ自分が
良くならないから我慢して
やっているわけでもないし、
何かすごい力を得たいから
やっているわけでもありません。
自身の内から湧き上がる導きが、
ただただ純粋な動機なのです。
そうして導かれるままに探求が深まって
感覚が研ぎ澄まされていくと、
否応なく見えてくるものはあるし、
感じ取れるものがあったりします。
そのときに、どういう態度を取るのか、
というのも、自分自身の純度に
影響してきます。
見つめ、感じ続けていれば、
どこかが歪んでいるとか、暗いとか、
何かある、というのは
解像度の程度の差はあれ、
必ずわかるはずです。
それに気づかずにいれば、
奥深くからの呼びかけは
やってくるでしょう。
いったん満足した後に、
その微かな呼びかけに気付くことが
できるかどうか。
そして、それに応えて、
一応の満足を捨てて再び歩みを
進めることができるかどうか。
探求者の資質にもう一つ
大切な要素があるとしたら、
それは自身の真実に対する忠誠、
コミットメントが挙げられます。
何よりも、それを優先することを
自身の軸としているのかどうか、
ということです。
たとえ真実を選ぶことで
混乱が起こるのだとしても、
目の前の平穏を捨てて真実を選ぶことが
今の自分にできるのか、
と問うてみると、今いる自分の
ポジションがわかるでしょう。
耳触りの良い言葉があれば、
口先でそれを求めることは
簡単です。
けれど、
それに伴うデメリットがある
とするならば、どうでしょう。
本当に行動できる軸を持っている人と、
表面をまねて見せているだけの人との
違いはそこにあります。
自分が今、
どの程度の在り様をしているのかを
知っているのは大切です。
それを問い続ける眼差しを持つことは
人生の大きな財産になるでしょう。