先日、とある定期的な集まりの後に
有志数人でいつものようにお茶しよう
ということになり、いつものカフェに
入ったのですが、そこでちょっとした
トラブルがありました。
これは何のお知らせだろうと思ったので、
思うところ、書いてみます。
トラブルの当事者は私ではなく、
知人だったのですが、その人は
私の数人前のレジの列にいました。
その人の順番になったところで、
脇にいたと見えた男性が、
列に向かって並ぶ方向が違う、
自分の側に並ぶんだ、と
文句を言いました。
知人の後ろにはすでに数人の人が
並んでその方向に列ができていたので、
私を含む後列の人は驚いて並び直し、
知人もその男性に譲ったのですが、
男性はいいんだ、と言って脇にいたまま
動こうとしません。
それなら、ということで知人はそのまま
注文と会計を済まそうとしたのですが、
男性はなおもぶつくさと文句を
言っています。
この段になって、この男性の様子の
おかしさに周囲のみなが気付くことに
なったのですが、傍から見ると、
ちょっとヤバい人のように見えました。
大人な対応をする人だったら
スルーしたのでしょうが、知人は
売られた喧嘩は受けて立つという
人だったので、
結局トラブルはエスカレートして
男性が知人にケリを入れるまでになり、
店内で警察を呼ぶことになりました。
最終的にはケガもなく、おまわりさんに
話を聞いてもらって終わったわけですが、
側で見ていて、とてもハラハラしました。
普通の人ではないと分かった時点で
まともにやり合うのもどうかと思うし、
一方で、男性の心理も見て行けば、
この人は極端なだけで、
私たちの誰しもの中にある
理不尽への怒りの噴出でもあった
ようにも見えます。
傍から見ると、
互いに互いが自分の正しさを主張し、
相手を道理の分からないヤツで
悪が自分を不当に踏みにじっている
という被害者のポジションに
なっているな、と見えました。
それぞれに言い分があるのでしょうが、
であるならば、トラブルになる
前の段階で、もう少し他の処し方が
あったような気もします。
男性も、自分の主張をした後に、
自分が思う正当な権利(と見えるもの)を
手にする場面はあったのに、
なぜかそれを受け取らずにさらに譲り、
不満を言い続けているというのも、
だとしたら何のために声を挙げたのか、
欲求と行動がちぐはぐになっていて、
ただ周囲を混乱させた結果、
何も生み出していないのに本人は
気付いていないのか。
その後その人はずっと不満げな様子で
ふてぶてしい態度をとっていたので、
どこまでも自身のおかしさを認める
眼差しはないのだろうと見えました。
この、欲求と行動のちぐはぐな感じ、
私の中にもあるな~と思ったのですが、
心がねじくれてしまって、素直に
差し出されたものを受け取れなく
なっているのですね。
散々我慢してきたのに、
ほいっと差し出されて、何だよ今さら!
みたいな、余計に怒りが出てきて
しまって収拾がつかなくなる、という。。。
周囲から見ても、とても扱いにくい
困ったちゃんですね。(^^;
多くの大人は、こういうところがあっても
周囲の目もあるし、みっともないから
あからさまには出さないけれど、
心の奥でクサクサしている、ということが
多かれ少なかれあるんじゃないかと思います。
それが素直に出てしまうのが
ヤバい人、変な人なんでしょうね。
(そこだけ素直という。。。)
こういうねじくれた心を癒すには、
まずは我慢し続けてきた苦しみを受け止め、
統合して、求めるものをちゃんと
受け取れる状態に整えていくということが
必要かな、と思います。
ちなみに、このねじくれた心に
魔物の気配もあったように感じます。
彼らは、時間をかけて人の心を
こういう状態に持っていくんですね。
そうして、苦しみと孤独と恨み、
憎しみに心を満たしていく。
哄笑する彼らの笑いが
聞こえるようです。
同じ場面にいながら、
ある人は笑顔と幸せを感じ、
ある人は恨みと憎しみに心を焼かれる。
自分の心を自ら暗い方に追い込んで、
魔物の餌にしないよう、心を柔らかく、
素直に、広くすることを
忘れずにいましょう。