自分軸や中心を取るということは
肉体的にも精神的にも大事なこと
だと思うのですが、
最近、能や狂言の身体操作を
探求していて、軸や中心を取るには
力を抜くことが必須なのだな、
と思うようになりました。
力が変に入ってしまうと、
軸や中心は不自然なところで
歪み、固まってしまうのです。
けれど、素人や未熟達者は
それらを「作ろう」として、
余計な力を入れてしまうんですね。
本当は、それは作るのではなく、
元々あるのを感じ、見つける、
くらいの感覚のもののように
思うのですが、
未熟達者はそれを感じること自体が
難しかったりします。
というのは、元々の自然な在り方に、
長年生きてきた中で身に着けた
余計な鎧や歪み、癖のせいで、
本来の状態からかなりかけ離れた
在り方になっていたりするからです。
修練というのは、必要な筋力や
感覚を磨いていくというのも
あるでしょうが、
そうした鎧を外し、
癖や歪みを修正することも、結構
大きな割合を占めているのではないか
と思ったりもします。
軸や中心感覚が取れてくるようになるれば、
今度はそれを起点にあらゆる動作や
意識の使い方が自在に出来るように
なっていきます。
そして、もっともっと力を抜くことが
簡単になります。
これが、勘所を掴むということに
なるのかな、と思います。
そこが掴めると、あとは大体
同じ文脈で様々な状況にほぼ
対応できるでしょう。
中心を掴むと、そこがまるで
台風の目のように最小の力で静まって、
周囲の嵐に影響されることなく
安定することができます。
感情解放ワークでも、
自分の存在の中心から湧き出てくる
真の力に触れ、導きにしっかり
チューニングしていると、
心はブレにくくなります。
そのまま深く深く自分の中心に静まり
降りていくほどに、様々な直感や
ビジョンがやってきます。
自分自身の暗いところ、痛いところに
降りていくときも、自身の真の力や
導きの感覚があるからこそ、
恐れを越えて、そこに向かうことが
出来るのです。
そういう感覚がないままに、
自身の闇に触れていこうとするのは、
相当に難しいことかもしれません。
ただ、思うに
内面の闇に向き合い始めた初期の頃は、
その困難を越えて行こうとする中で
自分だけの導きの感覚を得たり
していくところがあるので、
最初の一歩を踏み出す勇気を
振り絞ることは必要かもしれませんね。
卵が先か、鶏が先か、ですけれど。
肉体にせよ精神にせよ、
熟達は、余計なものを極限まで
削ぎ落していくことのプロセスで、
練られて行くものがあるのかな、
と考えました。
深く目覚めた意識のマスター
レナード・ジェイコブソンのプレゼンスも、
確かに、一点の曇りも不純物もない、
今この瞬間に在る意識です。
自分で無いものにならない、というのは、
究極の奥義なのかもしれません。
多くの人は、自分を否定して
自分で無いものになろうとし、
自分のものではない様々な力や
付加価値を身につけたがります。
そうしたものは、エネルギー的に見ると
私にはどこまで行っても異物にしか
見えないのですが、
真の奥義は、
自分でないものになる方法ではなく、
究極的に自身の根源の力を
発揮する方法なのだろうと思います。
これ故に、自分を否定し離れた者は、
最も大切なエッセンスに触れることは
出来ないだろうと思うのです。