タイトルの通り、
人の顔色を窺いながら生きている方、
すごく多いですよね。
私自身も、大分好き勝手生きて
いるようでいて、まだまだ
良い子ちゃんになっているところ
ありありですし、
一方で、そういう基準で
他者をジャッジメントしてしまう
ところもあります。
良い人、良識、常識のある人間で
居ようとすればするほど、
親やご近所さん、コミュニティの
人たちの目を気にして、
本来の自分からは程遠い型に
自らを押し込めて、その呪縛に
苦しんでいるところもあるのでしょう。
そのような傾向が強くなるには
それぞれ生きてきた環境が大きく
影響しているところがあります。
一番は幼少期の養育者、
ほとんどの場合は両親ということに
なりますが、
何らかの事情があって、
実の親ではない方に育てられた
と言うケースもありますし、
祖父母と同居で、両親よりも
そちらの方が厳しかったとか、
住んでいたコミュニティが
すごくやかましかったなど
色々ありますね。
今は時代的にも、
かつてほどではなくなった
という見方もありますが、
いやいや、まだまだ全然
健在ですけど、と言うお声も
よく聞きます。
今日ここで取り上げたいのは
自分軸がないままに、
自分の本意ではない
在り方をしてしまうことの
弊害についてです。
人の顔色を窺うということは、
自分軸が揺らいでいる、
ということなんですね。
その瞬間、何が起こっているかと言うと、
自分が感じていること、自分の思いを
一切切り離して、他者の価値観、
願い、ニーズに沿うような言動を
するように反応しているのです。
つまり、その瞬間
自分自身を生きていない状態
になっています。
私がお伝えしている感情解放ワークでは、
どんなときも、自分自身から離れないこと
がとても大切であるとお伝えしています。
エネルギー的に見ると、
他者の顔色を窺っているとき、
その人の意識は、相手に集中していて
自分が全くお留守になっています。
これはとても不健全な状態なんですね。
どうして自分を離れて
他者のニーズを優先してしまうのか
というと、そこに恐れがあるからです。
他者のニーズを満たさなければ、
生きていけなかったり、
実際に心身を傷つけられたり
恐い思いをしたり、
見捨てられる恐れがあったりと、
そこには深く生存欲求にもかかわる
恐怖心が絡んでいるんですね。
日常的に、その深い恐怖心までは
感じていなくても、掘り下げていけば
確かに、と思うことでしょう。
これ故に、
人の顔色を窺うような在り方を
したくないと思っても、
頭だけで修正することは
極めて難しいのです。
自分が何を恐れているのかを知り、
その感情をしっかり統合することです。
それは、幼いころに
怯えて暮らしていたあの日のまま、
封じ込められた気持ちのカケラ
かもしれませんし、
いつぞやの時代、どこかの誰かとして
不遇な人生を送っていたころの
魂の記憶に刻まれた絶望的な感情
なのかもしれません。
そうした記憶をどうやって見つけるか
というと、こんな風に
自分に問うてみます。
もし、他者の顔色を窺わないで
自由に生きていたとしたら、
何が起こってくるだろうか?と。
頭で考えてしまうと、
もっと自由で楽しく生きている
とか答えてしまいそうですが、
もし本当にそうであるなら、
今現在、人の顔色を窺って生きている
はずがありません。
見つけたいのはそういう答え
ではなく、この問いによって浮上する
ネガティブなイメージです。
そのイメージから掘り下げていくと、
最も避けたいもの、ストーリーを
伴った場面が見えてきます。
そうしたストーリーの中で
浮上してきた感情を統合すると、
人目を気にせず、自分自身を伸びやかに
表現できるようになっていきます。
自分軸をしっかり持って、
生きられますように。