人生で、多くの方が多かれ少なかれ
直面する人間関係。
そのベースにあるのが
信頼の感覚だと思うのですが、
似たような言葉に信用というのが
あります。
この二つの言葉、似てはいるけれど
全く違った意味合いで、一般に
信用は実績に基づいて相手を信じること、
信頼は、その人の人柄や考え方、行動など
から相手を信じること、とあります。
後者の方が、より心情的な要素が
強い言葉のようです。
だからビジネスでも、
信用取引とは言うけれど、
信頼取引という言葉は使いませんね。
自身の人間関係を振り返ってみて、
あなたは周囲の人をどのくらい
信じているでしょうか。
そして、その「信じる」というのは、
信用でしょうか、信頼でしょうか。
信用はするけれど、信頼はしていない、
という関係性もあるでしょうし、
とても信頼していて、もちろん
信用もしているという関係も
あるかもしれません。
あるいは、信用も信頼もしていない
と言う人もあるかもしれませんね。
ただ、信頼はするけれど、
信用はしていないというのは
あまりないような気がしますが、
どうでしょうか。
信用は、実績、エビデンスが無ければ
成り立たないものですから、これを
言い換えれば、条件付きの愛
と言えるかもしれません。
一方の信頼は、実績がなくても
しばしば成立することがあります。
見返りを求めない、無条件の愛
と表現できるでしょうか。
あらゆる人間関係の中で、
愛している、信頼していると言っても、
その実、それが条件付きの愛、信用
であるということはよくあります。
自分の思った通りに振る舞ってくれない、
思ったように気持ちを返してくれない、
自分の価値観に当てはまらないような
ことをする、自分の気持ちに共感
してくれない等々。
こうした場面に直面した時、
裏切られたと感じて激高したり、
関係性を断絶したりする場合、
それはやはりどこかで
信頼だと思っていたものは、
条件付きの愛や信用だったところが
あるのではないか、と思うのです。
かと言って、盲目的に
何もかも信じるというのも
もちろん違うと思うのですが、
真に深いレベルの信頼関係を結ぶには、
人間目線の価値観をベースにしていては、
難しいのではないかと思います。
では、何をベースに
それを築いたら良いのかというと、
私の場合は、その人の可能性を見て、
それに触れることです。
たとえば、その人の中に
自身の人生を切り拓いて生きていく
力が無いように見えるだろうか?
他者を愛する力が無いように見えるだろうか?
この世界を輝かせていく、何かしらの
力が無いように見えるだろうか?
いつかどこかで、誰かを幸せにする
力が全く無いように見えるだろうか?
これらの資質が、いつかどこかで
花開く可能性が全く無いと言えるだろうか?
表面的に見えている風貌とか言動、所作
ではなく、時空を超えた可能性を
見るようにします。
そうすると、その人の中にまだ埋もれている
「善き種」に触れることができます。
たとえ今がどうしようもなく見えたとしても、
その人の中に、この善き種が見えるのなら、
私はその種に対して自分のできる愛を
注いでいこうと思うのです。
これが私の思う信頼です。
他者の中に見る善き種の輝きは、
私の浅薄なエゴの価値観をはるかに越えて、
とても美しく神聖です。
それを見ることで、自然に
謙虚で、厳粛な気持ちにもなります。
人生で、何かの価値観によって
ジャッジメントされ、決めつけられて
接してこられるのではなく、
ただ、自分の中の可能性を信じて
そこに暖かなまなざしを注いでくれる人に
出会えるということは、どれほどの恩寵
でしょうか。
それは、かつての自分がどうしても
得られなかったものかもしれないし、
いつかどこかでそうしたものを注がれた
懐かしい記憶があるかもしれません。
いずれにせよ、
他者にそれを注ぐことができるということは、
自分自身にとっても、限りない恩寵なのです。