自己探求において、
様々な方を拝見してきて、
自分自身で深めていける人と、
水平方向にウロウロする人がいる
ということが不思議で、以前から
何故なのだろう?と思っていました。
そこで、今日はこれについて
思うところ、書いてみます。
自分なりに探求を重ねてきて、
誰しも、壁にぶつかり、
行き詰る体験をすることが
あると思います。
そんなとき、
どんな態度を取るのか。
見込みがないと諦めるとか、
誰かに相談したりヒントをもらいに行く、
セミナーなどに学びに行く、
助けてもらえそうな人に泣きつく、
誰かにすがる、自分でぐるぐる
考え続けて固まっているなどなど。。。
そのどれかが正解で後は不正解、
というわけではなくて、
場合によってはどれも不正解で、
どれもが正解だったりします。
だから、良い悪いではなくて、
根本的に、どれだけ本気で求めたのか
というところなんじゃないかと思います。
学びに行くのも良いですが、
本気で学んだことを自分の人生で
生かしていこうと思ったときに、
どんな学び方をするでしょうか。
決まったカリキュラムの中で、
正解を教えてもらうことを
受け身で受け取り、
決まった問いかけが来た時に、
教えてもらった「正しい答え」を
返すことができるようになることを
学びだと思っている人も多いようですが、
それは学びというのでしょうか?
それは、その道を行くのなら、
最低限知り、身に着けておかなければ
いけない基礎であって、やっと
スタート地点に立ったところです。
そこから先、己の力量を頼りに
道を歩み始めた時、テキストにはない
様々なことがやってくるでしょう。
それに対して、
自分なりに応えていくわけですが、
どのような応え方をするか、です。
そこでまた、新たな教えを求めて
旅をするのも良いですが、
どれだけ様々なツールやメソッドを
求めても、
それらは本質的には、
ものごとを知るための手段にすぎません。
もちろん、
ある方法ではわからなかったことが、
別の方法で解釈した時にわかることも
あるでしょう。
それは否定しないけれども、
それを通してものごとに対峙した時に、
より深く本質に触れることが
できるようになったのか否か。
そこなんだと思います。
それがないままに、
テンプレートをたくさんかき集めて
効果があった、なかった、と
目先だけを追っていても、
結局どれも身につかず、あるいは、
そこそこそれらしいぼんやりした
成果はあっても、そこから深まることは
ないでしょう。
本質に触れるような学び方を
しないといけませんね。
そういう学びを、ツール集めで
埋めようとするのは無理な話です。
そのレベルで学びを捉える人も
多いですけれどね。それだと、
すぐに限界が来ます。
結局、本質に触れるというのは、
いかなるツールやメソッドを使っても、
自分を通してしか、触れることは
できないんですね。
つまり、深まらない人は、
自分を通り越して、
違うところを見ている。
私はそう感じます。
自分を深く深く見ていった先に、
内なる神に出会い、触れ、
やがて一体となって
人生を創造していくようになります。
その時に絶対に大切なのは、
正直さと誠実さです。
正直さがないと、
自分が逃げたことや、
未熟さに気が付けません。
誠実さがないと、
言い訳をし、自分の弱さ、甘さを
不適切に見逃し、許してしまいます。
だから、正直さと誠実さをもって、
本気で内なる神に、自分の人生に
対峙するのです。
勇気は、この二つの徳目によって
必然的に湧き起こるものだと思います。
自己探求をしていて、
もしこの三つの徳目に進歩が見られず、
深まってもいないのなら、
それはどこか自分に都合良く逃げて
誤魔化しているところが
あるはずです。
逃げていられる、ということ自体が、
つまりは自分に対して、神に対して
誠実ではないのです。