来週火曜日20日19時から、
毎月恒例の満月のオンライン瞑想会を
行います。
ミニリーディングでアドバイス、
メッセージをお伝えし、
エネルギー調整&チャージを
行っていきます。
恒例になっている
地球のヒーリングも、最高最善に
成されるべきことがなされ、
生きとし生けるものたちが
愛と喜びに生きられる世界が
創造されるよう、私たちの祈りを
届けていきたいと思います。
ピンと来た方は、ぜひどうぞ。
詳細、お申込みはこちらからどうぞ。
⇒満月のオンライン瞑想会
さて。
先日、天命について色々考えていたら、
思いもかけないような感情が浮上
してきたので、これを掘り下げてみました。
きっかけは、天命について語られた
動画だったのですが、天命は
天と自分との契約で、それは
必ずしも自分がやりたいことではなく、
大抵はやりたくないことの方が多い
ということでした。
その方自身は、
とても真摯に天命に向き合いつつ、
いくつもの大きなミッションを
果たされていく中で、
経験した人だけが持つ
肚の座り具合や淡々とした語り口が
印象的でした。
この方も、揺らぎながら、
たくさん葛藤されながら
お役目を果たされてきたんだな、
と思うのと同時に、
では自分は天命というものがあるならば、
このように覚悟してそれを受けられる
だろうかと考えた時に、どうしても
肚が決まり切らないところがありました。
これは何だろうと思って掘り下げてみると、
天命を生きたら、自分の心が死ぬ
という思いと重苦しい感情が
浮上してきました。
実はこの感情、
今生でも何度か覚えのあるもので、
本当に嫌なのだけれど、
自分は無意識レベルでも受け入れている
らしいので自己責任になる
ということだし他の選択肢は取れない。
これを果たそうとすると、
私の心は死ぬけれど、
天命を与えた存在がそれでも
そんな私を望むのなら、
どうぞ好きにすればいい。
というような思いでした。
そこには信頼のカケラもなく、
天命を与える存在は、
それを受ける人間の幸せなどには
露ほども関心なく、
要は、使える駒なのかどうか
ということのみが重要なのだ、
という冷めた感覚でした。
魂に刻まれた記憶の中でも、
何度かこのパターンのストーリーが
あったのだろうな、と思える
心当たりもあり、
強烈な迫害を受けて死んだ人生の
記憶なんかも蘇ってきました。
また、
これは生贄だったことがあるのかも?
というインスピレーションがやってきたので、
今までそういうストーリーが出てきた
ことはなかったのですが、ハートに聞くと、
ある、という答えでした。
多分、生贄になるべくして生まれ、
そのように育てられ、供されていった
のだろうと思います。
何不自由なく育てられながら
まるで生ける屍で、希望もなく、
虚しさと悲しみの人生でした。
なかなかにこの絶望に触れるのは、
今まで統合してきた絶望よりも
難儀な感じでした。
自分の奥底で、
生きることを諦めた絶望のカケラを
抱えながら生きるというのは、
手かせ足かせを嵌めながら
荒波の海を泳ぐようなものです。
生ける屍となったその感覚を
深く呼吸しながら感じていくと、
その状態は、天命を与えた存在への
ささやかな抵抗のようでもありました。
そんな状態でも懸命に自分を生きると、
生贄を食らう存在にとっては
よりうまみが増すような気がして、
そうなってたまるか、みたいな
気持ちがありました。
それから、生贄の記憶とは別の人生で、
天命のために命を燃やして生きた
人生では、
天の願いが成就された世界に、
自分の幸せがあるかというと、
自分はそこに生きていたくはない
という思いがあり、
以前から感じていたことでは
あるのですが、いつも成就された世界で
みなが祝福しあっている姿を背にして
去っていくイメージがありました。
これまで無意識に感じていた
いくつかのピースが、
天命というキーワードで
繋がってきた感じです。
だから使命や天命といった概念からは
一歩も二歩も引いている自分が
いるのだな、と納得です。
さて、これがわかった日の夜、
ある問いを投げかけて
眠りについたのですが、
翌朝方に見た夢は、
ある人物が優しく手をつないで、
接してくれる夢でした。
最初、不思議な夢を見たものだ、
と思ったのですが、後から、
ひょっとしたらそれが私の問い
に対する答えだったのかも、
と思いました。
引き続き、このテーマは
取り組んでみたいと思います。