お知らせは、徐々に近づいてくるもの。
最近、同じキーワードが日常の中で
続けて出てきました。
1回目は、直接私自身にいただいた
アドバイスで、自覚はなかったけれど、
そうなのかな?ということで
ボチボチ見ていこうと思っていた
ところでした。
その矢先に2回目が来て、
これはがっつり、鏡として見せられ、
うわ~!と思いました。
そのテーマとは、ずばり
承認欲求。
あなたは一体、誰に認められようとして
生きているのですか?という話です。
もう親には認めてもらう必要もないし、
私は私なんで!ときっぱり言える
気がしますが、
無自覚に権威を与えてしまっている
存在に、知らぬ間に足をすくわれ、
引っ張られている自分がいたのでした。
わかりにくかったのは、あからさまに
あなたに認めてほしいんです!とは
思っていなくて、
否定、断罪されるのが恐ろしい、
という方向の恐れがあったことでした。
その存在の前に立つと、
固まってしまう自分を、
どうしようもできませんでした。
それがなぜそうなるのか、
ずっとわからずにいたのですが、
いただいたヒントで糸口が見えてきました。
その存在に否定されても、
私は私なんで!ときっぱりと言い切れれば
良いのでしょうが、
その分野の学びに関して、
絶対の権威を与えてしまっていたのですね。
だから、否定されたら、
その分野での生命線は断たれる、
くらいの感覚になってしまっていたのでした。
そのことは自分自身の価値を
無に帰すのと同義に捉えていて、
絶望と深い苦悩の源泉になっていました。
冷静に考えてみれば、
それは真実ではないのはわかるはず
なのにね。
こうして、無意識に自身の生殺与奪の権を
相手に与えていたということに
初めて気づいたのでした。
これも、承認欲求のテーマだったんですね。
誰かや何かに権威を与えることについて、
とても気を付けていたはずなのですが、
学びに関しては、師匠(グル)の言うことを
素直に聞くのがまず第一、と思っていたので、
これも混乱の原因の一つになっていたと思います。
というのは、通常、
私は誰かの言ったことについて、
自分自身の体感に基づいた経験や、
腑に落ちている感覚に照らして
自分の中に取り入れたり理解したりする
のですが、
上記の考え方で行くと、
まず教えありきで、どうにかして
その教えを取り込もうとして、
試行錯誤しきて、ずっと
うまくいきませんでした。
ある到達点に至るのに、
様々な方面からの道があるのに、
最も苦手な道を選んでいるようなもの
だったのか、混乱は深まるばかりでした。
もちろん、恩寵もたくさんありましたが、
消化不良な教えを軸にしてしまうことで
地に足がつかなくなっているところは
あったと思います。
つまり、私は私なんで!という
自分軸が取れなくなっていたのですね。
これも、エゴで横車を押すのと
紙一重のところはあると思いますが、
自分軸でしっかり地に足がついた
感覚のところから、仕切り直してみよう
と思いました。
自分の歩みは、自身の内なる神とともに
自分で決めるもの。
生殺与奪の権は、自分自身で握ること。
自身の尊厳を真に祝福できるのは、
ただ己のみ。
ここまで書いてきて、
何だか自分の内側から、覚えず、
じわっと来るものがありました。
振り返ってみて、
権威を与えていた存在の祝福と、
私自身の祝福と、どちらに力や価値を
感じるだろうか、と確かめてみると、
ちゃんと自分自身の方になりました。
たとえば、誰かが私を罵倒したり、
妬んだり、否定したり、決めつけたり
称賛したり、診断したとして、
その人がどれだけ私のことを
知っているというのでしょう。
その一面の切り抜きが、
ある部分で的を射ていたとしても、
それが私のすべてではありません。
それを自分の真実とするかどうかは、
吟味する必要があります。
通常、この「自分軸で吟味」する
という工程がすっぽりと忘れ去られ、
抜け落ちてしまうがゆえに、
無条件に真実として受け入れてしまい、
傷ついたり混乱したりして
我を見失ってしまうのです。
ここまで整理してきて、
自分軸のとらえ方がまた少し
変わってきました。
自分軸とは、
何を自身の人生の真実とするかを決める権威
とでも表現したら良いでしょうか。
常に毎瞬、意識していきたいと思います。