そこそこの年月、癒しにかかわる
仕事をしてきて思うのは、
人間にとって健全な状態とは
どういうものなのか。
その人にとっての幸せって
どんなものだろうか。
ということです。
これを、常識や社会通念に求めることは
不可能で、であるならば、別の指針が
なくてはなりません。
私の場合、その人のハートの導きと
その人自身が向かう方向性、在り様が
一致していることを指針としていて、
セッションでも必ずこれをチェックし、
本人の認識とのすり合わせをしながら
進めています。
ただ、タイミングなども
あるのでしょうが、
本人がどうしても進みたい方向性と
導きが一致せず、それがそのときの
その人にとっての学びという
ケースもあります。
何事も、自分で選んで
自分で失敗を体験しないと
納得できないところがあるでしょう。
だから、それもそれで
間違いではないのです。
そういう場合でも、一応は、
その在り方は導きとは違うよ、
ということはお伝えします。
そのうえでどうするか、
そこからは本人の選択ですね。
導きとは違うけれど、
必ずしも成功しないというわけでも
ありません。
逆に、世間的に見たら、
結構な成功を収めることも
あります。
本人も、勢いに乗ってガンガン
攻めたいところなので、
そこで慎重になって注意深く在る
というのは、余程の感性がないと
なかなかに難しいところです。
導きの延長線上を歩んでいて、
軌道修正や気付きを得ながら
進んでいくのと、
根本のところでズレていて、
勢いに乗っているところで
気付きを得て軌道修正するのとは
相当な違いがあります。
今得ているものが大きいほどに、
しがらみや未練も大きくなるので、
そういう場面に直面すること自体が、
その人にとっての最適な学びの場
ということなのかもしれません。
人によって、
未練や執着の中身は様々です。
得ているものによって
直面しないで済んでいた諸々に
対峙した時に、それに誠実であることが
できるかどうか。
再び誤魔化し、逃げてしまわずに
いられるかどうか。
それを克服していくやり方は
色々あるのだろうけれど、
願わくば、
ハートの声とともに歩む方が、
ずっと人間的であるし、
その人自身のオリジナルの輝きや
温かさがあって好きだな、
と私は思います。
何かしら、使命に殉じるような
在り方をされている方の中に、
ハートの導きの声が蓋をされているように
感じられる方があるのですが、
それは本当にあなた自身の
命の願いからきている使命でしょうか、
と思うことがあります。
自分を疎かにし、無いことにして
神なるもののお役目を果たそう
ということ自体が、どこか
逃避のように見えてしまいます。
なぜ、神なるものの世界から、
自分を排除するのでしょうか。
自分をよく生きることがすなわち、
神のお役目を果たすこととイコール
だと私は考えているので、
自分を生きないで使命を生きようとする
姿勢には、賛同できないな、
と思うのです。
あくまで、個人的意見です。
幸せな、素晴らしい世界を築くのに、
自分自身がそこに入っているか、
確認してみましょう。
誰よりも、幸せにしなければいけないのは、
他でもない、自分自身ですからね。
あなたと、あなたの生きる世界に
純粋な喜びが満ちますように。