とても苦しい状況に在って
一杯一杯の時、自分を思ってくれての
苦言やアドバイスなのに、受け取れず、
払いのけてしまう、ということが
あります。
アドバイスや苦言といったものは、
それを生かすにはある程度
エネルギーが必要であり、
心身共に疲弊している時は、
その負担が重く、受け入れ難い
のでしょう。
けれども、
そのままではいつその心の余裕が
できるか、その見通しも立たず、
ますますの悪化の気配が
感じられるとき、
悠長に時を待つということが
出来ない場合もあります。
本人のその頑なさ、逃避癖が
その苦境の大きな原因になっている
ときは、なおさらですね。
本人がそこに気づけたら、
流れは大きく変わっていくだろうに、
きっとこの人は受け取れないのだろうな
と見えてしまうこともあります。
そんなとき、その人のその在り様は、
そう見てしまっている自分自身の
鏡である、ということを
思い出しましょう。
その現実を見せられているということも、
メッセージなのです。
自分はあんなんじゃない、
と全く自覚が無かったとしても、
頑なに受け取れずにいる、
逃げ続けていることがないでしょうか。
目の前のその人は、
なぜ聞こうとしないのでしょうか。
被害者意識と自己憐憫の意識に
飲み込まれ、自暴自棄になっている
のでしょうか。
自身の生きているこの世界を
敵認定して、徹底的に拒絶
しているのでしょうか。
何か見なければいけないものがある、
と知りながら、自分の思う正当性、
正しさにしがみついているのでしょうか。
その人は、きっとこうなんだろうな、
と推測されるその在り様が、
まさに今の自分の態度なのです。
自分の中にまさに同じものが無いか、
振り返ってみましょう。
ものすごく拒絶、抵抗があるときほど
全くピンとこないものです。
あぁ、あるな、まさに自分だ、
と気づけたら、なかなかに開けた
気づきの感性です。
掘り下げをしていて、
そうした要素が明らかになって、
振り返るとき、
周囲にいる人は、まさにその人は
その通りなんだよね、とみな
ニヤニヤして納得している一方、
本人だけがポカンとしている、
なんてこともあります。
自身の認識の死角というのは、
恐ろしいものです。
それほどまでに、明らかなのに
見えないのですね。
だからこそ、謙虚さが大事なわけです。
指摘されたことがピンと来なくても、
本当に自分には的外れなこと
なんだろうか?
自分が気づけていないだけで、
ひょっとしたら、何かを言い当てている
のではないか?
と、いったん受け止め、
注意深く吟味してみることも
必要かもしれません。
もし、万に一つでもそのような要素が
あったのなら、絶対に気づけるくらい
の意識を持って、我が身を振り返った時、
まさにあの言葉は真実であった、
と気づけるのであって、
どうせ違う、無いに決まっている
と思って見ていては、あるものも
見えないのです。
まして、自分にとってそれが
都合の悪いこと、受け入れ難い自分
であるならば、なおさら、
見えなくなってしまいがちです。
無いものを在るように見る必要は
ありませんが、あるのに
見過ごすことの無いように。
その苦しみは、
見るべきものが見えない
その在り様自体が招いている
と言えるかもしれません。
苦しいとき、逃げたくなるのも
わかりますが、逃げる前に
自分が果たすべきことは
果たせたのか。
やるべきことはやったのか、
と問うことです。
心の底からその問いに対して
Yes!と言えるなら、
それは逃げではなく、
状況に対して適切に応答した
ということなのでしょう。
一時の状況からは逃げられても、
人生からの問いかけからは
逃げられません。
自ら、自尊心をくじくような
選択はしないように。