自分の人生において、
何に権威を与え、優先し、重きを置くかは
その人自身の生き様そのものを表します。
だからそのことに無意識に
誰かの価値観をそのまま取り込む
のではなく、
自分自身で一つ一つ腑に落としながら、
意味ある必然性をもって
自分で決めることです。
たとえば、
私はハートの声を聞き、
それに従うことがとても大切だと
お伝えしています。
これは、私にとっては
絶対的にどんな情報や人の言葉よりも
優先すべきことで、決して
疎かにしてはならないことです。
なぜなら、
自身の経験で、ハートの声を疎かにして
良い結果につながったことが一度もない
からです。
身に染みて、その重要性を確認する
実地の経験があるので、これは
疑うべくもない、私の人生にとっての
指針となっています。
けれど、そういう裏付けとなる
自分自身の生きた体験が無いと、
人から言われたから良いらしいよ、
という程度の認識にしかならないでしょう。
そういう段階で、
もっと良さげな情報が入ってきたり、
自身の心の惰性や慢心が起これば、
容易にそんな指針など消え去ってしまいます。
だから、マインドレベルで
どんなに固く決意しても、
自分の中でそれを固める根拠が空虚な時、
いともたやすくその決意は
崩れ去っていくのです。
この辺りのプロセスは、お手軽に移植で
済ませることはできないですね。
横着をしないで、
自分で体験してみて、検証し、
血肉としていくことです。
今の世の中、誰かが作った
「正解のテンプレート」が溢れています。
そういうもので
「正解の自分」を作り上げている人は、
本当に自分の人生を生きておらず、
バーチャルな人生を生きています。
そこに、
人生を生きるみずみずしい喜びや驚きが
あるのでしょうか。
空虚な人生を生きながら、
それが空虚だと気づかない人もいますね。
それで満足できるなら、
それも幸せなのかもしれません。
一方で、そんなものに満足できず、
耐え難い魂の渇望に苛まれながら、
ずっとその渇望を満たすものを探してきた
という方も、それは素晴らしい恩寵だった
のだと思います。
天は、そんなところに安住するな、
あなたの在るべき場所はそこじゃない。
と駆り立て続けてきたのでしょう。
いったん、自分の人生は、
自身の内なる声によって歩む
と決めたのなら、
正解集を求める心とは、
永遠に決別してしかるべき
だろうと私は思います。
たまに正解集を覗きながら、
内なる声と併用する在り方も
やろうと思えばあるのだと思いますが、
完全に正解集と決別した在り様とそれは
全く似てもいないし近くもない別物である
という理解は持っておきましょう。
正解集を覗きたくなるのは、
本当には決めていないし、
その道を歩み始めてもいない
ということです。
この辺りの感覚をもう少しわかりやすく
するために、イメージしてみましょう。
いつでも不安になった時に正解集を
カンニングできる状態で自分の道を
歩んでいる時と、
正解集を見るということそのものの選択肢が
無い状態で、ただ自身の感覚のみで
道を見つけ、切り拓いて行かなければ
いけない歩み。
この違いがわかるでしょうか。
この違い故に、
全く似てもいないし近くもない別物
なわけです。
どれだけ前者のような歩みをしようと、
後者の歩みの重み、リアリティの
足元にも及ばないでしょう。
これが、本物の自分の人生を生きる人と
バーチャルな人生を生きる人の違いです。
どちらの選択が良くて、
もう一方の選択が悪いということではなく、
ただ、自分がどんな在り方をしているのか、
気づいているだけでも、意識は変わりますよね、
という話です。
いずれを選ぶにせよ、
今のあなたのその人生は、
紛れもなくあなたの選択の結果なのです。
その結果がいかに不満の多いものであろうと、
あなたは自身の選択のメリットを
確かに享受しているわけです。
それが嫌なのなら、デメリットを引き受けて
別の選択をするしかありません。
願わくば、その選択が内なる声と
ともにありますように。