古今東西、様々な礼拝の対象や
信仰の形があるけれど、
最も根源的な礼拝の形は、
自分と命の根源なるもの(神)が
分かちがたく一体となって
生きることなんじゃないか、
と思いました。
そんなことを考えたのも、
セッションで信仰される神様の
礼拝のお作法などについて
ご質問をいただくことが
しばしばあって、
私はそちら方面の専門家ではないので、
正式なところは専門家の方に
お聞きするようにお伝えするのですが、
エネルギー的に見てわかるところ
に関してお答え出来ることがあれば
お伝えするというスタンスで居ます。
そんな中で諸々感じるのは、
お作法を間違ったら何か罰が当たるとか
良くないことがあるのではないか
という不安感からご質問される方が
多いな、と言う印象があります。
もちろん、お作法を疎かに言う
つもりはないのですが、
その姿勢には、信仰や礼拝の
本質的な何かが抜け落ちているように
感じるのです。
あくまでこれは私の個人的な
感覚なのですが、礼拝を通して
その方が目指しているところに
何かとても違和感を感じるのです。
特定の神様や仏様の信仰を持つには、
様々なきっかけがあるでしょう。
豊かになりたいので、
金運や商売繁盛の神様を礼拝するとか、
邪悪なものからの守護を願ってなど、
特定の御利益を求めていたり、
何かとても親しみを感じて
好きだからとか、苦しい人生を生きる
支えという方もあるでしょう。
ご利益信仰というのは色々言われますが、
神様とのご縁を結ぶ最も入りやすい
初期の段階の入り口のように思います。
そういう意味では、
それ自体が悪いとは私は思いません。
ただ、我欲で神々と取引するような
態度で臨めば、それはそれなりの結果を
もたらすでしょうから、
そういう段階の学びをする
必要があった、ということなのだろう
と捉えています。
痛い目に遭って
信仰自体が間違っているとか
恐いものだと遠ざかることも
あるでしょうし、
長い年月を経て、自らの過ちを
深く理解し、より本質的な信仰の段階に
目覚めていく人もあるでしょう。
一度は試して体験してみなければ
わからないことがあるものなので、
どんな体験であれ、とことん
やってみればよいのでは、
と私は思います。
骨身に染みて理解、納得し、わかれば、
押し出されるように段階は
進んで行くのですから。
そうしてやがて、幾多の年月を経て、
大いなるものと邂逅する神聖なそのときが
やってきます。
人生を流れる命の本質に、
紛れもない愛を知るのです。
そのときに、それまで
形式ばかりに気が向いて、
罰が当たるのを恐れていた
あの感覚は霧消し、
信仰と礼拝の本質を理解します。
我欲にまみれながら
修羅のように生きていたときも、
ひたすら救済を求めて
すがっていたときも、
思うように望みが叶わなくて
天に唾吐き、背を向けたときも、
どんな瞬間にも、
あの愛は自分とともに在り、
離れたことなどなかったし、
今この瞬間も自分を去ってはいない
と知るのです。
そのような愛を知った後では、
その人の人生は、後戻りなく
変わってしまうでしょう。
その愛とともに生きる人生そのものが、
既に礼拝なのです。
調子の良い時も、悪い時も、
人間目線で見て不幸と思えることが
起こった時も、
思うように願ったことが叶うから
愛されていて、叶わないから
見捨てられているわけではなくて、
起こったことにはすべて、
ものすごく深い意味があり、
自分へのメッセージなのです。
そうした体験の一つ一つに
じっと心を澄ませ、問いかけ、
対話していく歩みの中で、
言いようのない恩寵を受け取るでしょう。
これからの人類は、
宗教によって信仰するのではなく、
ダイレクトに自分と大いなるものが
繋がることによって起こる信仰に
シフトしていくんじゃないかと
思っているのですが、
人間本来の調和した命を体現するような
信仰が出来ると良いですね。