人の心の奥深くに向き合っていると、
たまに、狂気のエネルギーに
出会うことがあります。
その人の顕在意識レベルでは
ごく普通で、狂気とは程遠い日常を
送っているようでも、そういうものを
抱えていることはあります。
なぜそのような狂気を抱えているのか、
人によって色々な理由はあるのでしょうが、
ここでは、逃避としての狂気について
書いてみたいと思います。
人生で、あまりにも耐え難い辛さを
味わっている時、正気でいることが
ひどく苦しいことがあります。
狂ってしまった方がどれほど楽か。
そんなセリフをドラマや小説などで
見かけたことがあるかもしれませんが、
セッションでも、
辛すぎる現実が受け入れ難くて、
自ら狂気にはまりに行っているような
行動パターンを見ることがあります。
破れかぶれで自暴自棄になる、
なんていうのも、ある種、
このパターンに近いかもしれません。
同じようなパターンで、混乱する
というのもあるのですが、
狂気はそれよりも、より深い
自己喪失状態のように感じられます。
人間の心は不思議なもので、
奥深いところで狂気を抱えながらも、
一方で、その狂気を恐れていたりします。
表面では、
そんな辛さを感じてしまったら
気が狂ってしまいそうだ!と
感じる感覚をシャットダウンして
やり過ごしていても、
実際は、いくら感じないようにしても、
既に辛すぎて狂ってしまっている
領域が自分の中に在るのです。
セッションでは、よくこういう部分に
アプローチして、癒しを送って
狂わなくても良い状態に
導いて行くことをします。
そうすれば、狂気は無事に統合され、
もう感じる感覚を閉ざさなくても良くなって
機能不全や生き辛さは解消されます。
狂うことで苦しみから逃れようとするにせよ、
感じる感覚を閉ざすにせよ、人の心は
あらゆる手段を用いて、苦しみを
回避しようとします。
けれども、如何に回避しようと、
受け止められなかった体験は
心の奥で消化不良となり、
別の新たな問題を引き起こすように
なるでしょう。
だから私たちは、受け入れ難い体験が
出来る限り起こらないように恐れ、
予防措置に躍起になります。
ところが、本当はそれらの体験は
ただ苦しみをもたらす悪なのではなく、
私たちをより深いレベルの愛に導く
呼びかけでもあるのです。
これは、頭でその概念を知っている
だけではダメで、
本当にその呼びかけに心を澄ませ、
真摯に現実に向き合い続けて
実際にその真意に触れなければ
わからないでしょう。
それまでは、どうやっても
その出来事が愛だなどとは思えず、
むごい出来事の被害者になる
しかないのです。
その一つの姿が、
自ら狂気に溺れに行く自分です。
狂っていれば、様々な無情な重荷に
押しつぶされることは
無いのかもしれません。
けれど、自分には
本当にその現実に対峙していく
底力が無いのでしょうか?
ご自身のハートにじっと心を澄ませて
聞いてみてください。
押しつぶされている心で聞くのではなく、
もっと深く、ハートの奥から
浮上する答えを拾うのです。
本当は、自分のどこかに
その苦しみを受け止め、癒して
現実に対処して行く力がもし
あるのだとしたら、
あなたはそのような自分に
なりたいと思うでしょうか?
ハートの奥から、その力はある
という答えが来て、その力で
この現実を越えて行こう!と思えたなら、
もあなたは、狂気に逃げなくて良いのです。
被害者を止めて、力強く、
自分自身の人生の主導権を握って、
新たな領域を拓いていったら良い。
多くの人は、
厳しく見える現実に圧倒されて、
自分が本当はどれだけの力を持っているのか
知らずに、自分は弱い、無力だと無条件に
強く深く信じ込んでいます。
人生は、そんな私たちに、
自身の本当の力を証明せよ!そして
もっと豊かな人生の甘露を享受せよ!
と手荒い発破をかけるのです。
そんな人生の呼びかけに、
どこまで応えて行けるか。
チャレンジですね。