今日も、つらつらと最近考えていたこと
について、書き綴ってみます。
先日参加したある大先生のお話会で、
「死ぬ気でやる」という言葉が出て、
会場のみなさんもそれについて
色々質問されていました。
それから、何となくそのワードが
心に残っていて、それとはなしに
意識を向けていたのですが、
その後、別のところから
あるパズルのピースがやってきて、
それも加えてさらに意識を
向けていたら、
自身の魂の奥に眠っていた
ある感覚が蘇ってきました。
それは、己の魂を全身全霊で
燃やし尽くして、時代を駆け抜けて行った
人生の記憶。
と言っても、感覚のみの記憶で、
具体的に何をしたのかは
さっぱりわからないのですが、
ただその鮮烈な感覚だけは
残っているのです。
以前から、この感覚があるのは
わかっていたのですが、今生の自分は
こんな風に生きることはないだろうな、
と思っていました。
けれど、
突然その感覚が鮮やかに蘇ってきて、
しばらく、じっとそれを味わっていました。
ムーラダーラから背筋を
とてもクリアで美しいエネルギーが
通るような感じで(そんなに激しくはない)、
自身の全エネルギーがある一つの方向に
定まっている感じ。
どこか、リミッターが外れているというか、
意識もエネルギーの在り様や質も、
通常とは全く違う別次元のよう。
一瞬の兆しで、いつでも瞬時に
始まってしまうような状態です。
特に、第3、2,1チャクラの
抜け具合が格段に違います。
そんな様子を観察しながら、
なるほど、こういう状態から
行をするから、あのような現象を
体現できるのか、と思いました。
逆に言えば、行というのは
このくらいの覚悟をもってしなければ
その神髄の片鱗にも触れられない、
ということなのですね。
と、ド素人ながら自分なりの気づきを
拾っていたのですが、この直後に
さらに私にとっては、ものすごく
意味のある気づきがやってきました。
先日、ガネーシャ・ギリ先生の
ヨガのクラスで、印(いん)を下ろしたのですが、
それがある神様の印だということでした。
その神様は、ある意味、気味の悪い
恐ろしい姿をされていて、
私にはご縁は無いな~と思っていました。
どうして自分が、その神様の印を
下ろしたのかもわからず、
流れに任せてみることにしたのですが、
ふいに、その神様の姿の意味が、
はっきりとわかってしまったのでした。
その姿はまさに、まさに。。。
その気づきがやって来た瞬間に、
覚えず、涙が溢れていました。
印(しるし)があったら、とのことでしたが、
思いのほか、こんなにも早く
その印が来てしまったことに驚きつつ、
今後の自身の生き方について、
このところの深い気づきとともに
考えてみようと思いました。
ここからは全くの余談なのですが、
行と言うのはテクニック的なものは
まずできていて当然で、
それに臨む在り様の部分が
ものすごく大事なんだろうと思います。
ピアノで言えば、楽譜が読めて
その通りに弾けるのが
最低のスタートライン、
そこから、
その音を演じる、というよりは
いかに生きるか。
あらゆる行も、
その人自身の在り様の基盤の上に
成立するもので、だからこそ
「道」となり得るのでしょう。
日本文化の「道」というのは本当に奥深く、
それはお稽古の時だけではなく、
日常のありとあらゆる瞬間の在り様を
包含した意識の向け方です。
立つとき、歩く時、座るとき…。
形と言うよりは、本質的には、
やはり内的な在り様が先でしょう。
そういう意識文化の上で、
様々な芸事や武術が磨かれていた
と思います。
スポーツと違うのは、
そういう内面の部分でしょうか。
死ぬ気でやるというのは、
命を投げ出して死んでも良いと思って
猪突「盲」進、あるいは、「妄」進
することとは全く違うこと、
と、私なりに理解しました。