他人から自分のことを悪く言われるのは
とても不愉快に感じる一方で、
自分に対しては自虐が癖になっている
人がいます。
私自身もまだそういうところが
全くなくなったわけではないのですが、
普段から自分を大切にしようと思いつつ、
いざ自分の価値を認めるとか、
愛を受け取るとかいう場面になると、
途端に落ち着かなくなるということが
すごくありました。
つまり、尊厳のない自分、
大したことのない自分、
ダメな自分で居たくはないはずなのに、
そういう自分でいることに
どこか落ち着いてしまっているのです。
ダメな自分なんだから、
悪く言われるのも仕方がない、
愛されないのも当然だ、
できないもの自分の努力が足りないから、
などなど、
様々な理想とは違う自分であっても、
だからこそ傷つかずに済むというか、
傷が浅く済むわけです。
そうやって、あらかじめ
傷つかないように、防御策を張っている
わけですね。
本当に愛されていなかったら、
本当に価値のない自分だったら
耐えられないから。
けれど、傷つかないようにしている
その在り様が、本当に欲しいものに
触れることから自分を遠ざけて
しまうのです。
こういう構造は大概
無意識の内に働いているので、
望むものを実現したいと
日々努力している顕在意識では、
全く自覚がなく、
気づいていなかったりします。
私はよく、クライアントさんたちに
本当に内なる神に触れたいと
思っているでしょうか?
愛を受け取りたいと思いますか?
とお聞きするのですが、
ほとんどの人は
はい、ずっとそれを望んでいるのですから
もちろんです!と答えられます。
けれど、私から見ると、
その人は全力で神の愛に背を向けて
逃げているんですね。
こんな自分では、
愛される資格がない。
もっと「ちゃんとした」自分にならないと。
そう言って、距離を取っているのです。
でも、そう思っている限りは、
どれだけその資格や条件を整えても、
永遠に愛を受け取れるようには
ならないのです。
いつかきっと、愛を受け取れる自分になる
ことを望みつつも、それは今この瞬間
であってほしくはないのです。
優等生のような良い子ちゃんではない
在るがままの自分を直視し、対峙し、
受け止めるというのは、
ときにひどく苦しいこと
かもしれません。
在るがままの自分というと、
なんとなくリラックスしていて
飾っていない、無理のない
素の自分というゆるふわなイメージが
あるような気がしますが、
実際はそればかりではないでしょう。
意地悪だったり嫉妬深かったり、
冷酷だったり不器用だったりという
認めたくないような側面も
たくさんありますよね。
そういうのも、分け隔てなく認め、
受け止められるかどうか。
これは良いけれど、こっちはダメ
みたいに自分を切り刻まないで、
まるっとさらけ出せるか。
自分を責め苛むよりも、
余程勇気が要るし、
最初は大きなエネルギーも
必要でしょう。
でも、そこが定まらないと、
ずっとその在り様は続いていく
と思います。
無自覚に自身の尊厳を貶め、
ダメな存在に自らしてしまうことを
意識して止めましょう。
そして、今この瞬間に満ちてくるものを
受け取りましょう。
それこそが、ずっと探し求めていたものです。
あちこちに出かけ、探し求め、
見つけられず、気が狂ったように
もがき続けてきたけれど、
それは、そのようにして
得るものではなかったのです。
多くの人は、幸せは努力して勝ち取るもの、
何もしないではやってこないもの
と骨の髄まで教え込まれてきたので、
今この瞬間に満ちてくるものを
受け取る、と言う神との対話の方法を
忘れてしまいました。
一瞬触れても、またすぐに
失うのではないか、と
しがみつきたくなって、
力んだ瞬間にそれを失い、
失望するのです。
でも、何度でも戻ってきたらいいのです。
それは、あなたから去ることは
ないのだから。
あなたの歩みが、
常に恩寵とともに在りますように。