先日、「頭の声とハートの声」
という記事で、頭で思ってることと
本音よりなお深い、ハートの声が
ズレていることがある、というお話を
しました。
このズレにどれだけ気づき、
一致させられているかが
本当に内観を実践できているかどうかの
指標にもなると思うのですが、
自分に深く向き合い続けていれば、
口先ではこう言っているけれど、
実際自分は全然準備ができていなかった、
そんな風には思っていなかった
と気づくことがしばしばあります。
そのたびに、自分のその言葉が
どれだけ空虚なものだったのかを
思い知るのです。
一方、
そのズレがわかるということは、
本当に深いところから
一本筋が通った状態も、わかるように
なっているということでもあります。
この筋の通り方も、良く観察して行けば
深さの段階があることがわかるでしょう。
ある段階までは通っていても、
それよりもさらに深く見て行ったときに、
ノイズのような異心が捉えられたり
することはよくあります。
すっとどこまでもクリアに
心が整った人というのは、
この筋の通り方が並ではないわけで、
それだけ、自身の在り様を磨き続けてきた
精華なのだと思います。
表面的なところほど、
いかようにも自分を偽ることが
できますが、深くなるほど、
偽ることはできなくなります。
そして、バイブレーションはクリアに
研ぎ澄まされ、パワフルになっていくので、
このレベルから自己表現すると、
表面的にはそれほど派手でも
力を入れているわけでもないのに、
なぜか相手の心に深く響き、
訴えかけるものが込められるように
なるんですね。
自分の表面的なところしか
捉えられていないと、
そこに込められているエネルギーの
根が浅いので、
どれだけ声を大にして伝えても、
どこかその表現に厚みがなく、
薄く、浅く感じられてしまいます。
そして、その薄さ、浅さを補うために、
余計な力を入れたり、声を大きくしたり、
マインドを忙しなく働かせるのです。
アートの分野ではこうしたことが
とても関係してくると思うのですが、
様々なアーティストの芸を見て行くと、
パッと見の派手さ、華やかさで
人気のある方も多くあります。
一方で、
ものすごく繊細な意識の使い方で
密度が高く、奥行きの深い表現の
芸術もありますね。
本物のアーティストは、
多かれ少なかれ、例外なく
あるレベルでの意識の使い方を
磨いているものだと思いますが、
そういう意識の鍛錬が
あってこその表現に触れると、
何とも、見事としか言いようのない
感嘆の念を、しばしば抱きます。
そのような芸術は、見る側にも
ある程度の見る目というか、
同じ方向性での見識みたいなものが
要求されますが、
受け取る側の見識が、
またその芸術を創造する側への
フィードバックとなって、
その芸を磨いていく良い循環が
起こっているのだと思います。
アーティストがファンによって
育てられていくというのが
まさにそれで、
優れた目を持つ贔屓の存在は、
芸術にとってはとても大きな
活力の源でもあるのではないでしょうか。
先日、あるアーティストの舞台を
見に行ったのですが、トークのところで
その人がある美術展にお忍びで行ったとき、
作品を見ていたある一般の女性陣の言葉に
冷や汗をかいた、というお話がありました。
その美術展では、その一角だけが
作者の意図が違った作品を
展示していたのですが、
それを見事に見抜いて放った
何気ない一言が、
あまりに的を射すぎていて
このように本質を見抜くお客様がいる
という事実に、表現者として
身が引き締まる思いがした、
という意味のお話だと
私は受け取りました。
こんな風に、非常に目の肥えた
鋭い感性を持った方って、
いらっしゃるんですよね。
磨き抜かれたアートに触れること、
達人の在り様に触れることは、
自分自身の意識のレベルを
格段に深くすると思います。
すっと一本筋の通った在り様を目指して、
私も研鑽を積んで行こうと思います。