先日、
ガネーシャ・ギリ先生のところの
ヨガだったのですが、
ある行法をしたときに、
行法をやると、
急に武士っぽい雰囲気に
なるんだよね~みたいな
コメントをいただきました。
以前からよく武士っぽいとは
色々な方から言われていて、
一部のクライアントさんからは、
サロンは道場みたいだ、とか
言われたりもしていました。
そう言えば、高校の同級生の
おじいさまがどこかのお寺の
偉いお坊さんだそうで、
そのお家に遊びに行ったときに
一度だけお会いしたことが
あったのですが、
会うなり、
あなたのご先祖様は武士か?
と聞かれて、うちは商売をやっている
家なので、古い時代はわかりませんが、
武士ではありません、とお答えした
ことがありました。
何か、武士のような方が
ついてくださっていたんでしょうかね。
まぁそれはさておき、
なぜそう言われるのかつらつら考えていて、
ふと浮かんだことがあったので、
それについて書いてみたいと
思ったのでした。
お武家さんというものも良く知らないし、
武術どころか、身体操作にについても
ド素人のたわごとなので、
生温かい目で読んでいただけましたら
幸いです。
で、何を思ったのかと言うと、
武士っぽく見えるような意識操作の仕方を
しているのかな、と思ったわけです。
武士っぽい意識操作って
どんなんやねん???
って私も良くわかりませんが、
(なぜかいきなり関西弁。笑)
私はセッションをするときとかに
とても大切にしている
ある意識の使い方をしていて、
それと同じ文脈で行法をやると、
そこそこ先生に評価していただけるので、
先生のヨガと、私の在り方の要点が
たまたま一致していたので、
長年通わせていただいているのだと
思っています。
で、その意識操作とは
どういうものかというと、
私のセッションでは、
ハートを主に使っています。
鏡のように静めたハートのスクリーンに
相手の情報を様々に映して、
それを読み込みながら
ポイントにアプローチしたり、
働きかけをしたりします。
それと同時に、
クライアントさんや、
その方の中から出てきた様々な存在
とも対話・交渉をしていくわけですが、
自分の中心からぴったりと
全身のエネルギーが通った状態
になったところから言葉を発するように
意識しています。
自分の中心というのは
言葉では表現しがたいのですが、
肉体の重心とか、軸とも違うし、
しいて言えば、
存在のあらゆる次元の中心みたいな感覚で、
それは肉体上にはありません。
その中心と、ハートの奥にいます
内なる神にしっかり触れると、
いかなる存在とも渡り合っていく
力が湧いてくるのです。
いわゆるこれが胆力というやつかな
と思うのですが、丹田を特に意識せずとも、
これらがしっかり取れていれば、
丹田は自然に使っているような
気がします。
(あくまでド素人の感覚です)
で、話は戻って、
昔の武士がこういう意識操作を
していたのかどうかは定かではない
のですが、
日本語の表現の中には
胸に聞くとか、日常の中でごく自然に
ハートを使う感覚表現があるので、
それは文化的に、そういうことが
自然に身に付いた民族だったんだろう
と思います。
そして、私はそれほど
武術とかを研究しているわけでもないし、
習ったこともないので本当のところは
どうなのかわかりませんが、
この私の意識操作の方法が、
たまたま、昔の武士の何かしらの
それに近いか、同じ要素があるので
武士っぽく見える、ということなのかな、
と思ったわけです。
古来、日本人は(と言っても
いつからかは知りませんけど)、
「道」を通して精神修養し、
己を磨いてきました。
武士がもしこういう意識操作を
修養してきたとすると、
それを文化として持っている
というのは、なんかすごいこと
なんじゃないかと思うのです。
私はこういう意識操作を
誰かから習ったこともないですし、
セッションで、クライアントさんに
向き合う中で自分なりに磨いてきた
在り方なのですが、
それが先人の風を映すように見える
のだとしたら、きっとそれは
私の中に受け継がれたDNAの中の
記憶なのかもしれません。
つらつらと、
そんなことを考えました。