誰しも、叱られた経験が
1度や2度、どころではなく、
もう数えきれないくらい
あるだろうと思います。
以前、私は
「怒られること」と「叱られること」
がイコールだと思っていました。
これらが違うと理解したのは、
随分大人になってからですが、
叱られることの真意を受け取ること、
叱ることは、なかなかに奥深いものだと
最近、つくづく思います。
怒られるというのは、
相手の不快感故の怒りのエネルギーを
ただ八つ当たりのように
ぶつけられることですが、
これは感情解放ワークでは、
本来その人自身が受け止めるべき
怒りのエネルギーを擦り付けられた
わけなので、
八つ当たりをされた側としても
ただ不快な感覚だけが残るし、
理不尽な思いが恨みにもなるでしょう。
こういう責任転嫁は、
本来やってはいけないものですね。
そうは言っても、
みな聖人君子のような人ばかり
ではないので、咄嗟に抑えきれない
怒りに、ついやってしまうとか、
自分がそうされながら生きてきたので、
そのこと自体が当たり前になって
しまっている人もあるかもしれません。
(決してそれが良いとか仕方がない
と言っているわけではありません)
一方で、叱ることは
ただの八つ当たりではなく、
相手にとって大切なことを理解させ、
導くための愛の行為です。
ということは、
叱る側が、何が大切なことなのか
わかっていないといけないし、
厳しいことを言うにせよ、
相手の段階に応じて
理解するような叱り方を
しなければいけません。
けれども、
叱る相手が必ずしもすぐに理解
するとは限らないし、
相手が受け取り、理解するレベルの
ずっと先のことについて
叱らなければいけないときもあります。
もしかしたら、
死ぬまでその人は叱責の真意を
理解しないかもしれないし、
恨みに思われるかもしれません。
黙って表面だけで当たり障りのない
やり取りをしていれば、
そんな風に難しいことで
思い悩む必要もないのでしょう。
けれど、
そういう誠実でない接し方に
妥協が出来ず、そのまま相手が
大切なことを理解せずに
その後の人生を生きることを
良しとしないとき、
嫌われ、憎まれることも
その人が傷つき、悲しむことも
厭わずに、一切の妥協なく
真っすぐにその人を見て、
覚悟を持って叱るでしょう。
叱られた人が、
叱ってくれた人のその思い、
愛を受け取ってくれたら幸いです。
叱られる側も、
その叱責の痛みに瞬間、身を固くし、
反射的な自己防衛で、言い訳をしたり、
相手を責めてしまったり
するかもしれません。
ただ責められた、怒られたとしか
感じられず、理解してもらえなかった、
嫌われた、などの悲しみと混乱に、
ただただ翻弄されるばかりで、
その真意に思いを致すということが
できる状態では、到底ないのかもしれません。
それでも、
両者の時間はそれぞれの思いを乗せて
過ぎていきます。
叱る側にとっても、
叱られる側にとっても、その時間は
魂を締め上げられるくらい、
苦しい時もあります。
両者にとって、
この苦しい時間を越えて、
贈られた厳しい愛が受け取られ、
成就するかどうかは、
まさにギリギリの賭けのようなもの。
それぞれが、妥協なく、
誠実に自分自身に向き合い、
流されず、諦めず歩み続けなければ
決して成就しない、
魂のチャレンジだったりします。
そんなチャレンジの最中の両者には、
有形無形の存在たちの眼差しが、
熱く注がれているのを感じます。
負けるな!諦めるな!
と、祈るような励ましのエネルギーが
新たな魂の次元に昇華しようとしている
チャレンジャーたちに注がれています。
歩みの最中に、
ふとそれに気づくこともあるだろうし、
長く暗いトンネルを抜けた後に、
あぁそうだった。ずっと守られていた、
と気づくこともあるでしょう。
人生に、一度でもそんな
魂のチャレンジが出来た人は幸いです。
成就した暁には、その人のハートには、
深い深い愛が宿るでしょう。