私たちは、とかく選り好みをします。
自分が何を受け入れるのかを
識別する必要はありますし、
何でもかんでも受け入れればいい
というものではないので
そのこと自体が悪いわけでは
ないのですが、
これまで
様々な方の心の内を見てきて、
感情解放ワークの視点から
絶対に受け取るべきだろうと
私が思うことがあります。
それは、自分の現実です。
そうあってほしい理想とは大きく違った
出来事が自分の現実に起こった時、
あなたはそれを受け入れられる
でしょうか?
ときには、そのことによって
心が引き裂かれ、ショック状態になり、
日常を送るのもままならなくなる
こともあるかもしれません。
そこまで行かなくても、
私たちはしばしば、
受け入れ難い現実を受け取り拒否し、
無かったことにしてそう在ってほしい
理想を夢見てしがみついていたりします。
けれども、
そのような在り方をしてしまうと
その人は自身の人生から遊離し、
生きる力も湧いて来ず、
いつまでも地に足のつかない状態で
現実とかみ合わない生き方を
することになっていきます。
そして何より、
その現実によって生じた自分の感情の
エネルギーが分離して封印され、
癒すこともそれに適切に対処することも
出来なくなってしまうのです。
深い傷を負ったとしたら、
それがそのまま無意識に沈められ、
顕在意識から消えたとしても、
その影響は深いところから厳然と
及ぼされているということです。
そうなると、
その人は自分が特定の領域のことについて
うまく対処できないのがなぜなのか、
全く理解できないままに、その機能不全に
悩まされることにもなるでしょう。
セッションでは、よくそういう
本人の自覚の外にある封印された
ストーリーとそれに伴う感情を
もう一度顕在意識に引き上げ、
受け取り拒否されたその現実を
安全に自身の中に統合していく
ということをします。
分離したその現実は、
欠くべからざる自分の人生の一部です。
たくさんのセッションをしてきて
つくづく思うのですが、
全ては全体として一つであり、
完全なのです。
それを、気に入らないからと
どこか一部だけを分離して
無きものにしてしまうと、
不完全となり、あらゆるものが
バランスと調和を失い、
機能不全をきたすのです。
いかに受け入れ難くとも、
それが自分の人生に起こったには
起こったなりの理由があるのであり、
それを受け取り、
何がしかの学びを拾い上げたときに、
人生は次なる段階にシフトしていくのです。
故に、
一部を隔離し、無かったことにするのは
実に浅はかとも言える態度なのです。
その出来事が起こったということは、
それを糧にしていく力があなたにはある
ということを意味しています。
よく、自分に越えられない試練は
やって来ない、と言いますね。
そう考えると、
それも多分、真なり、と思います。
人生は常にチャレンジに満ちていて、
魂は人間目線での幸せとか良識とか
優しさとか、善悪などとは
全く違った原理によって働いています。
あり得ないほど理不尽なこと、
ひどいこと、残酷で汚いことも
起こります。
スピリチュアルではよく、
それも自分で望んで起こしているのだ
と言いますが、
多くの人は、
自分はこんなこと望んでない!
と即座に否定するでしょう。
けれども、
転んでもただでは起きぬ精神で
何事かをそこから掴み取った時、
魂がその出来事を差し向けた
真意に気づくのです。
確かに私にはこの出来事が
必要だった。これがあったからこそ、
今の自分がある、と。
自分がどれだけ自身の人生を
受け入れているのか、
その出来事を直視できているのか、
問うてみると良いでしょう。
どんな部分も、
それが自分だと認め、受け入れるのは、
なかなかに覚悟が要りますね。
受け入れているようで、
わかっているようで、
本当には受け入れていないし、
そのことに、
自分で気づいていないことも
よくあります。
注意深く、
自身のスタンス、在り様を観察して
身をよじるように明後日の方を向いている
ことに気づき、修正できると、
自分を通り抜けるエネルギーがすっと
通って、しっかりこの世界、
自身の人生にグラウンディングします。
その感覚がわかったとき、
あぁ、これが今この瞬間を生きる
ということなんだな、と
わかりました。
自分の人生が差し出すものを
選り好みしない。
これが、
ものすごく大事な鍵だったんですね。