セッションでよく、
その人がハートの導きをちゃんと
受け取れているかな~?というのを
チェックするのですが、
ハートに厚く壁があって、
全く受け取れていない人、
一生懸命
受け取ろうとしているけれど、
どうも意識が向いている方向が違うとか、
必死過ぎるとか、固定観念が強すぎる等で
うまくかみ合っていない方があります。
そういう状態から、
セッションを重ねたり自分なりに
セルフワークを続けてこられて、
以前よりも随分噛み合うようになってきた、
ハートがその人に本当に受け取ってほしい
と願っているものに、触れるようになってきた
という方もたくさんいらっしゃいます。
ハートの声、導きというのは
すごく崇高なものだろうとか、
そういうものを聞いてしまったら、
好きなことが出来なくなってしまう、
支配されてしまう、否定される
と思う方もあるようで、
こんな自分ではまだまだそのような声に
触れられるわけがない、と端から
自分でブロックしてしまっている
こともあるし、
支配される、窮屈だ、
きっとこんな自分じゃ叱られる、
受け入れてもらえない等と思って
自ら遠ざかっている人もいます。
けれども、
それぞれが持っているそのイメージが、
実際、本当にその通りなのかどうか、
というのは、多くの場合、
確かめられてはいません。
確かめたとしても、
その人の持っている何かしらの投影が
被っていて、歪んでいることが多いです。
それらの投影には、幼少期に徹底的に
親などから否定・拒絶されたりした
強い痛みを伴うイメージ等が入っていたりして、
それがすごく生々しい事実として
感じられるんですね。
だから、本当にハートに触れてしまうのが
すごく恐くて、すくんでいるのです。
あとは、固い信念によって
作り上げられた概念に安住することで、
自分を安定的に保っているので、
そこから出てまで、真実に触れて行く
必然性がないという意味で、
「この自分自身が」ハートに触れて行く
ということすら、思いもしないというような
スタンスになっていることもあります。
思いもしない、とここで書きましたが、
それでも、頭ではわかっているのです。
そういう方には、何度もお伝えしているのでね。
すると、その通りですね、と
その場では納得されるのですが、
根本的にその意識が切り替わるまでには、
相当な段階を踏むことがしばしばあります。
何度も、自分が本当には
ハートに触れようともしていない、
という無意識の行動を繰り返し指摘
されたりしてね。
本当にその真意を理解して
言行一致の在り方になるというのは、
なかなかのことであります。
ハートの声を聞くこと、
ハートの導きを受け取ること、
内なる神に触れることは、
私は同義で使っている表現ですが、
それらができるようになりたい、
そう在りたいと本当に願うのなら、
なぜ自分でまずそれを実践してみる前に、
他者に答えをもらおうとするのでしょうか。
自分でそれをして間違うことへの
不安や恐れに深く向き合う前に、
他者にチェックしてもらおうと
するのでしょうか。
これまで、数多くのそうした人たちに
出会ってきましたが、今彼らを
振り返ってみて気づくのは、
彼らは本当に内なる神に触れたいのではなく、
ただ、間違いを犯したくないのだ、
という共通点があるということでした。
だから、
彼らにとって内なる神に触れるのは、
自分が間違いを犯さないための
「手段」なのです。
内なる神に触れるというのは、
いかにも崇高そうだし、
外側に向けてもそれは良いことだと
受け取られるから、それを求めている
自分へのセルフイメージも満たされる。
それさえ求め続けている自分なら、
きっと間違いは侵さないだろう。
安心だ。というわけです。
そういうスタンスで求めている人は、
本質的なことよりも、
とかくお作法とか形にこだわる傾向が
強くあります。
お作法も大事ですが、
そこから外れた行為を自分がすることを、
ひどく恐れているのですね。
つまり、
間違いを犯してしまったのではないか、と
すごく心がざわつくのです。
そのざわついた心を静めたいので、
誰かに答えをもらいたい。
大丈夫だ、こういう風にすれば問題ない、
というその方法を即座に教えてくれる人が
欲しいのです。
内なる神に触れることは、
「手段」ではあり得ない。
そことのことを、取り違えてないかな、
というのを今一度、ご自身の在り様を
振り返ってみてくださいね。