そうした方が絶対に良い、
とわかっていても、
様々な心のしがらみに絡めとられて
そうできないことってありますよね。
義理とか未練とか諸々の恐れとか。
そういうものを掘り下げていくと、
もうこんなのは嫌だ!変わりたい!
と思っている一方で、
変わりたくない。
偽りの平安や希望であっても
手放したくない!
真実なんか見たくない!
どうせ失ってしまうなら、
まだもう少し、こうしていられる内は
今のままでいたい。
そんな思いもあって、
決して幸福ではないけれど、
まだ耐えられる心の痛みを我慢して、
ぬるま湯のような不幸から
抜け出せなかったり。
理屈でスパッと割り切れないのが
人間なので、そういう状態も、
本人が納得しているなら
それはそれでアリかな、と
私は思っています。
無理やり断ち切っても、
心はその場所に残したまま
どこか虚ろに体だけ前に進んでいる
こともあるので、
本当に納得して、
熟した果実が木の枝から落ちるように、
自然に離れるタイミングまで、
行くところまで行ってみるのも
一つの選択かな、と思うのです。
けれど、人間の寿命は無限ではなく、
いつまでも若いままではいられません。
物理的なリミットがあることは、
よく考えておかなければいけませんね。
そういう意味では、
無理やり断ち切って、取り敢えず
前に進んでみる、という選択も
一理あります。
私自身、あることについて、
かつて無理やり断ち切って
前に進む選択をしたことがありました。
そのときは、
そのままでいるのも辛すぎたし、
かといって、断ち切る選択をするには、
あまりにも未練がありすぎて
随分長いこと、苦しんでいました。
けれどあるとき、
色々なことが重なって、
潮時を促されたんですね。
膠着状態が続いて身動きが取れなかったけれど、
やっと決断して行動することができました。
けれども、物理的なケリをつけた後も、
自分の心の中のものすごく粘着質なものは、
相当に長いこと残り続けました。
ケリをつけた当初は、
それ以外の選択肢は無かったし、
そのこと自体には後悔は一度も
ありませんでしたが、
さて、残されたこの中途半端な心の始末は
どうしたものか、と何をやっても
完了することはありませんでした。
あれから月日が経って、
その間に積み重ねたものもあり、
改めてそのことに向き合ってみると、
たくさんたくさん、気づくことがあります。
傍から見れば、
なんと不器用な生き方か、と思われても、
どんなに無様であっても、苦しんでも、
結局私はそういう経験をしたかったんだな、
と思うのです。
私の人生だし、自分が納得していれば
たとえそれが失敗であったとしても、
やりたいことをやった満足感は
あるでしょう。
ただし、この満足感に到達するには、
最低限、人のせいにしない、
自分で責任を持つのが大前提ですけどね。
人生には色々な楽しみ方、学び方があって、
これが絶対に正解、というものはなく、
その人のその時なりのテーマがあるので、
もし誰かをサポートする時には、
今はその人が何を学んでいる時なのかな?
というのを汲み取って、本当に危なくなるまでは
そっと見守っているのが最善の愛
ということもあろうかと思います。
学んでいる(楽しんでいる)最中には、
外野が何をどう言っても、入っていかないし
変われるものではないですからね。
どんなに愛に溢れた助言やサポートも、
受け取れないときはあるし、
時には、恩を仇で返すような態度を
取ってしまうこともあるでしょう。
未熟さ故、かたくなさ故、愚鈍さ故の
そうしたプロセスも、どれだけかかるかは
わかりませんが、やがていつかは過ぎて、
次の段階に進むときが来ます。
そのとき、受け取れずに流れて行って
しまったように見える恩寵の種の数々が、
時間差でその人の中で芽吹いていくのです。
そのタイミングを外からコントロール
することはできません。
その人の中に、豊かに満ちる恩寵を信頼して
各々、その時為すべきことを果たすのみです。