あなたはスケープゴートという言葉、
聞いたことがありますか?
身代わりとか生贄などの意味合いを持つ
聖書由来の言葉で、不満や憎悪、穢れ、
責任などを転嫁させる対象を言います。
それによって、転嫁した人たちは、
自分たちの清浄や潔白などを
確保したり、責任がら逃れたりします。
人間関係の様々な場面で
このスケープゴートを見るのですが、
家族の中で、友人たちの中で、
コミュニティ、身分社会の中でなど、
本来その人の責任でも何でもないのに、
理不尽にも他の人々のネガティビティを
押し付けられ、背負わされている
存在です。
押し付けた側は清々して
軽やかで気分良く居られるのでしょうが、
押し付けられた側はたまったものでは
ありません。
とは言え、人間とは不思議なもので、
そういう役を自ら買って出るケースも
あるのですよね。
たとえば、
いわゆる過去世と呼ばれる
別の人生の記憶で、
生贄の役を繰り返しやっている
人もいて、
なぜそんなことをしているのかというと、
そのことで人々から必要とされる自分に
特別な価値を見出そうとするのです。
そういう人生を自ら選ぶ人の
心の奥には、自分自身に対する
深い無価値感、無力感などを見かける
のですが、割とよくあるパターン
と言えます。
一方で、自ら買って出るのではなく、
理不尽にも押し付けられるケースでは、
非常に深い怒りや恨み、怨嗟が渦巻いている
重苦しいエネルギーが読み取れます。
本来自分のものではないネガティブなものを
わんさか押し付けられれば、
それはそれは毎瞬が地獄の様に辛いでしょう。
セッションの中で、そうした
スケープゴート、生贄のストーリーが
出てきたときは、
背負わされた重荷を本来の持ち主のところに
それぞれ返し、自分で責任を取ってもらう
というように誘導することが多いです。
国や村などで生贄の儀式を長年に渡って
執り行っているというストーリーも
結構出てくるのですが、
そういうときも、
生贄の儀式をやらなくても済むような道を
様々な方面から模索していくと、
結構やり様はあるものです。
やはり、誰かや何かに一身に
罪や厄、穢れを押し付けるという
社会の在り様は、あまり健全とは
言えないのではないかな、と
生贄の風習が無くなった世界に転換した
ストーリーの清々しいエネルギーを
感じるたび、思います。
生贄を必要とする社会というのは、
それを構成する一人一人の心の中にも
スケープゴートを持っているでしょう。
自分の中の、何かの要素に
自分の不幸の責任を押し付けて、
呪い続け、迫害、封印し続ける、
みたいな。
たとえば、
容姿や財産、身分や能力、学歴など。
そんなものが備わっていなくても、
幸せに生きている人はいるのに、
自分の不幸をそれらに責任転嫁して
徹底的に責めている人、
見かけますよね。
そのように責任転嫁してしまうのは、
自分の中で、その苦しみをどうやったら
昇華、統合できるのか、その術を
知らないからなのだと思います。
自分ではどうにも対処できないから、
何か別のものに転嫁させて
自分の苦しみから逃れようとする
わけです。
そのやり方も、
もうそろそろ、古い時代の遺物
になってほしいものだと思います。
誰かや何かが犠牲になるのではなく、
全てが己の本分を果たして
調和するような世界を
実現していきたいですね。
そのためには、
まずは自分の在り方から。
喜びも怒りも悲しみも
在るがままに受け取って、
昇華できる自分で在るように。