ものごとの渦中にいる時は
一杯一杯で、外野からどんなに
忠告を受けても他の選択肢を
取ることが出来ない、ということ、
あると思います。
先日、十数年ぶりに古巣の職場の
同窓会があったのですが、
懐かしい人たちに会って、
色々あった当時の自分を振り返る
良いきっかけになりました。
今日は自分の中の気づきを
整理する意味で、思うところを
書いてみたいと思います。
集まったのは部の数人で、
その後の職歴も皆さんいろいろ
異動しているし、一緒に仕事をした
期間の長い人も短い人もいたのですが、
私の母と同じ年(70代)の大先輩も、
まだ現役でその業界に関わっている
というのが驚きでもありました。
まぁ皆さんお元気そうで、
話し始めると、当時のキャラクターのままの
やり取りが変わらなくて、何年経っても、
人間って変わるようで変わらないな、
と思うのでした。
そんな、変わらないやり取りを見ながら、
でも自分の中でのその受け取り方、
評価の仕方は結構変わっていて、
当時、よく見ていたはずなのに、
スルーしていた人の様々な側面に対する
見え方が、全然違っていました。
当時の自分は、
軸が無くてふらふらしていたので、
譲ってはいけないところを
容易に譲ってしまい、
歪んだ価値観を受け入れ、
そのことで随分と苦しんでいたんだな、
というのがわかりました。
今だったらその選択肢は皆無ですが、
当時は強く執着していたところもあったし、
自分を大事にするということの意味が
わかっていなかったので、
別の選択肢はどうやっても
取れなかったのです。
その時の自分の力、資質、傾向では
選択肢はあるようでいて、
実はなかったんですね。
また、当時ものすごく大嫌いな人が
いたのですが、裏事情を聞いたら、
なるほどそうだったのかということもあり、
皆それぞれの事情の中で、
その人なりの反応の仕方、能力によって
あのような態度になっていたのだな、
とわかりました。
様々な人の様々な態度、ポジション、
反応の仕方の裏に、そうならざるを得ない
様々な要因がある、ということを
何度も重ねて感じました。
誰もが完璧な自分で生きている
わけではないし、ときには、
その人にとっては非常に苦しい環境で、
限られた自分の能力、資質で
対処しなければいけないわけで、
皆不器用ながらも必死で
生きているんだな、と
しみじみ思いました。
今の自分だったら、
あの人間関係、職場環境で、
どんな風に振舞うだろうか。
そもそも、今の自分は
あの環境にはいられないだろうな、
というのは置いておいて、
ちょっと考えてみました。
もう少し大らかな目で人を見て接したり、
一人で背負い込まずに上手に甘えたり、
敵を作らずにうまく上を動かしていく
みたいなこともできるんじゃないか
という気もします。
限られた自分のエネルギー配分を
見誤っていたというか、
こだわりが強すぎて優先順位を
完全に見誤ってましたね。
とにかく当時は、
あまりにも色々背負い込み過ぎて、
一杯一杯で余裕がなく、そのせいで
敵を作りすぎた気がします。
愛嬌なんてまるでなくて、
プライドばかり高くて
相当厳しい態度を周囲に取ってました。
今思うと、ホント可愛げが無い
人間でした。
それが、当時の自分の精一杯
だったんですね。
もう少し人間性を導いてくれる
メンターのような存在が居れば
また違ったのかもしれませんが、
そういう出会いもなかったので、
心身共に壊して自滅するまで、
その路線で突っ走ることを
止めることが出来ませんでした。
それでも、
大らかな目で私を受け入れ、
一緒に仕事をしてくれた皆さんには、
感謝しかありません。
もしあなたの周囲に今、
一杯一杯で常に余裕がなく、
キリキリイライラしている
後輩や同僚などがいたら、
温かな眼差しで見て、
その緊張感、不安感をほぐすように
できる範囲で導き、支えてあげて
欲しいと思います。
杓子定規な厳密さや過剰なプレッシャーは
心を硬直させ、のびやかさを奪い、
豊かな創造性を押しつぶしてしまいます。
大切なのは、人の中に在る様々な資質、
能力をのびやかに発揮させ、
状況の中に生かせるか、です。
深く、大きく本質を見て生かせる組織、
環境こそが、そこに存在する意義があり、
これからも存続していくでしょう。
そんなことを考えた同窓会でした。