変化することへの恐ろしさに
ただただ圧倒されてなすすべもない。
人生にはそんなときも
あるでしょう。
こんな非力な自分が、
どうしたらそんな人生に、社会に
立ち向かって行けるだろう。
身がすくみ、身動きが取れないまま
固まるしかありません。
それでも人生が続く限り、
道はそこで終わりではありません。
どこかに、道は続いているはずなのです。
こんな自分でも、歩める道が。
けれど、
あまりにも圧倒されてしまったり、
絶望してしまうと、
その道を探す気力もなかったり、
諦めてしまったりして
歩みを止めてしまいます。
拗ねて、思い切り遠くに投げ出して
断絶状態、なんてことも。
自分自身を深く掘り下げていくと、
そうして断ち切って中途半端なまま
になっている途切れた歩みの痕跡に
しばしば出合います。
もう随分古い時代のものなんだな~とか、
年代ごとに新旧あったりするそれらの
痕跡を再び拾い上げながら、
ケリをつけて行くわけです。
何度も何度もチャレンジしながら、
玉砕していったこともあるのだろうし、
ものすごく深く傷ついた状態で、
暗く冷たいところに沈んでいたり
する様子が見て取れたりもします。
こじれにこじれて、
一体どこから手を付けたら良いのか、
訳が分からなくなっている
ものもありますが、
解き方は、それ自体が明かしてくれます。
だから、自分の心を静めて、
じっと聞くことが大事なのです。
人生は、どれだけ自分の非力を訴えても、
それで納得して引き下がってはくれません。
自分の内に眠っている力を
出し惜しみせず使え!と
迫ってきます。
自分でも気づいてもおらず、
見つけてもいないそんな力が
もし本当にあるのなら、
それを使いたいと思うかどうか。
そこで選択は大きく変わってくるでしょう。
自分の非力さに圧倒され、飲み込まれている人は、
ここで選択が出来ず、ただただ翻弄されていく
だけの人生になります。
けれど、その非力さを受け止めてさらに
このままで終わらせず、少しでも何かを
掴み取っていきたいと願うなら、その主体性が
新たな人生を紡いでいくでしょう。
人生の被害者になるも、
主体的な創造者になるも、
自分次第です。
さらに、
ほんのわずかでも主体者であろうと願い、
それに向けて今の自分が出来ることを
するならば、
たとえそれが僅かなことであろうとも、
もうその人はこれまでの自分とは違う、
新たな一歩を踏み出しています。
どんなに果てしなく感じるような道であろうと、
踏み出しもしなければ、果てしないままであり、
決めて今この瞬間の一歩を実行するなら、
その道は漠然としたフワフワした恐れは晴れて、
実体のある確かな人生の感触をもたらすでしょう。
実際、人生を変えていくのは、
ものすごく大きくて派手な何かではなく、
この程度のこと?と思うような
小さなことの積み重ねなのです。
けれども私たちの多くは、
その小さなことを侮り、
そんな程度のこともしないで
ただ怯えるだけ。
まだできることはあるはずなのに、
もう何もできないのだと思い込んで、
別の可能性の扉を素通りして
ひたすら絶望している。
滑稽と言えば滑稽ですが、
逆に言えば、そのほんの僅かなことを
丁寧に積んでいけるのなら、
人生はどこまで変わっていけるのでしょう。
私たちは、人生をとても難しく
考えすぎているのかもしれません。
絶望は、
しばしば魅惑的な引力を持っていて、
その抗いがたい魔力に魅入られると、
私たちはそれに身を委ねてしまいたく
なるのです。
絶望を感じること自体が
悪いわけではないけれど、
それならば、頭でっかちに
絶望に飲み込まれるのではなく、
骨の髄までその絶望の感触を
心と体で味わってみたらいい。
そうしたら、
絶望はその魔の引力を失い、
深い呼吸の中で、私たちは
自分自身を取り戻していきます。
そのときに、
これまで見えなかった可能性の扉と、
それを開く力が自身の内から
湧いてくるのを感じるでしょう。
そうしたら、もうあなたは
非力な自分ではないのです。
こうして、出し惜しみされ、
隠されてきた力が顕現されるのでした。