人生長いこと生きていると、
自分の価値観とか常識をはるかに越えた
ぶっ飛んだ人に出会うことがあります。
良い意味でのぶっ飛んだ方であれば、
良い刺激を受けて、凝り固まった
社会通念を壊して新たな世界観を
見出せたりするのですが、
そうではないケースで、
しかもそういう人とある程度の期間、
そこそこ近い距離で過ごさなければ
いけないとき、それは相当に苦痛で
葛藤の多いものになるでしょう。
そんなとき、自身の境遇を
嘆くこともあるでしょうが、
このご縁にもっと建設的な意義を
見出して、人生の糧にできたら
良いですよね。
自分の人生に現れた人には、
皆それぞれ意味があります。
特に、良きにせよ悪しきにせよ、
心を揺さぶられるご縁には、
とても大切なメッセージが
あるものです。
それをどのように解釈し、
対処するかは人それぞれですが、
ここでは、お馴染み、鏡の法則から
それを読み解いてみたいと思います。
私自身の経験をいくつか
お話してみますと、
まずは大学を卒業して最初に就職した
小さな会社のお偉いさんで、
その言動に接すると、誰もが固まり、
ドン引きするという方がありました。
とにかく俺様が一番偉い、
他は下々の者、俺がやってやった、
他の奴がやったことは大したことが無い、
みたいな感じで、
周囲がドン引きしていても、
まるで本人は気にする様子もなく
俺様の世界でご満悦な人でした。
大人の世界でもこんな人がいるんだ、
とすごくびっくりしたのですが、
今振り返ってみれば、その人の態度は、
確かに世間知らずな自分の要素を
ものすごくデフォルメした姿で
見せてくれていたな、と思います。
その後紆余曲折経て就職した新聞社では、
自由奔放すぎる、気の良い人たちが集まる
不思議な会社で、
遊びっ気のない堅物な自分には、
その社風が相当にカルチャーショック
でもありましたが、ある意味、
とても居心地の良い会社でもありました。
ただ、ここまで無責任なのか、
と思うようなところも非常に目につく
人たちが多くて、そこだけは
相当ストレスに感じていました。
仲間意識は強いけれど、
自分に関係なければ干渉もしない代わりに
びっくりするほど無関心で、
ときには非情とも感じられるほどに
人の気持ちがわからない、無神経さに
感じられたこともありました。
ただ、そういうところも
今丁寧に振り返ってみれば、
確かに自分自身の一面をそのままそっくり
表していたな、と思うし、
そういう態度を自分にも取っていたので、
身体を壊したのも必然の成り行きであった
と思います。
当時の私は、自分に冷酷なほど無関心で、
非情なほどに無理を自分に強いていた一方、
中途半端に自分を信頼、評価し、
プライドもあったのでした。
人間は複雑な存在なので、
矛盾がないどころか、矛盾だらけで、
相反するものが同時に同居することも
しばしばだし、筋の通らない理屈を
平気で通していることもしょっ中です。
そんな混乱した自分だから、
自分や周囲への認識も混乱し、
歪んでいるし、認識の欠落、死角が
あちこちにあります。
だから、自分がどんな在り様をしているのか
容易には気づけないし、とんでもない
有様にもかかわらず、善良で良識のある
市民であると信じ込んでいたりします。
そんなとき、人生に送り込まれるのが
そういう自分の要素を極端にデフォルメして
見せてくれる、とんでもない人たち
なのです。
こういう人が自分の人生に現れたときは、
単にその人を批判して憤慨するのではなく、
自分へのメッセージだと受け取って、
注意深く、その人の「あり得ない要素」を
見つめてみましょう。
そして、頭でそうなのかも、
と思うだけではなく、
まごうことなくこれは自分自身だ!
という気づきがやって来るまで
徹底的に見つめ続けることです。
ときに非情に抵抗して、
自分がこんな風であるはずがない!
と反発心も湧くでしょうが、
反発するプライドよりも、
真実を求める気持ちや覚悟がなければ、
その気づきはやってきません。
いくらでも逃げられるし、
目を逸らすことが出来るからです。
そこは、自分次第ですね。
願わくば、
善良な市民という幻想を貪るよりも、
心地良い幻想を打ち砕かれるショックや
苦痛を越えて、より純粋な自分に
目覚めていく戦士たれ!
と思うのでありました。