最近、達人について色々と
考えてみる機会がありました。
達人というと、私は
何かの道を究めた人という程の意味で
捉えているのですが、
それは単に、
ものすごい技術を持っている人
と同じではないな、と考えました。
確かに達人は素晴らしい技術を
持っているのは当然だろうけれども、
ではそれだけで達人と言えるだろうか、
というと、否、と思うのです。
では一体、何が達人を達人たらしめている
のだろうかと、さらにつらつらと考えました。
むか~し、何かの教育番組で、
世界の優れたピアノの先生に教えを受ける
生徒さんたちのレッスンの様子を取材した
番組を見ていた時に、
超絶技巧を難なくこなす生徒さんに、先生が
あなたは人が持っていない素晴らしいものを
持っている。けれども。。。
その後の言葉を正確に思い出せないのですが、
その先生が指摘されたかったことは
何となく理解できました。
正確無比に難曲を弾きこなしているけれど、
どこにも人間としての情緒のようなものを
感じさせず、つっけんどんというか、
心のひだを震わせるようなものが
一切感じられなかったんですね。
技術がすごいだけの人を達人とは呼ばない
というのは、この例に近いものがあるな、
と思いました。
達人は、技術を越えて、
その道を通して、何か宇宙の真理
とでもいうべきものに到達した人
のことを言うのではないでしょうか。
たとえば、合気道開祖の植芝盛平翁は
誰が見ても間違いなく達人と
呼べるでしょう。
翁の演武などを拝見しても、
それはもう神に捧げる舞のようだし、
宇宙創成の神話を見るが如しです。
その域に達してしまうと、
もう技術とか情熱とかを越えて、
何か神々しさすら感じさせますね。
宇宙の真理のエッセンスを体得している
が故に、常人には到底及びもつかない
神業のようなことがいともたやすく
為されていくし、
精神的にも、この世界の捉え方が
全く違ってきて、あの独特の雰囲気を
醸し出すようになるのかもしれません。
技術の研鑽を極限まで突き詰めても、
そうしたエッセンスに触れていなければ、
あの突き抜けた意識にはならない
のだと思います。
達人にも、
持って生まれた資質や道の究め方によって
様々な個性がありますが、
どんなジャンルの達人でも、
極めた人同士、何かしら通じるものがあるのは、
宇宙の真理があまねく、この世界共通であるから
でしょう。
日本には、道という文化があって、
昔から、この国の多くの人々が
道に親しんできました。
道というのは、この宇宙の真理に到達せん
という歩みのすべてを言うのだと
私は理解しているのですが、
そう考えてみると、
国民の多くがそういう道に親しんでいる
お国柄というのは、なかなかに稀有なこと
なのではないかと思います。
よく、海外の方が日本人の気質を言うのに、
日本人は何でも道にしてしまう。
すごく職人気質な気風があると
評することがあります。
自分の取り組むことが何であれ、
それを通して宇宙の真理に触れようとする
この気風が、日本を技術立国に押し上げてきた
非常に大切な要素であることを
見逃してはいけません。
そういう気風があるからこそ、
他人の努力の結晶を盗んで取ってつけたように
自分の手柄にすることを恥と感じる
価値観があるわけです。
そんなことをするのは、
宇宙の真理に触れんとする道に照らして、
あり得ないわけですからね。
単に金儲けができれば良い
というだけの価値観は
私たち日本人の文化の土壌からして、
そぐわないのです。
日本では、
庭師であれ料理人であれ大工であれ、
道を究めた人を非常に大切にし、
リスペクトします。
それは、宇宙の真理のエッセンスを
体現する人だからです。
明治天皇の御製(ぎょせい)に
こんな歌があります。
(ちなみに、御製というのは
天皇の詠んだ和歌や詩のことを言います)
我が国は神のすゑなり神まつるむかしのてぶり忘るなよ夢
「神の末」というのは、なかなかに意味深く、
様々な面から捉えられるかと思いますが、
最近、内なる神をじっと感じながらいるとき、
この「神の末」という言葉の意味を深く感じ、
まさに、まさに、と思うのでありました。