山あり谷ありの人生、
色々ありますよね。
絶頂に向かってガンガン攻めの時
もあれば、潮が引くように、
どん底に向かって転げ落ちる時もあり、
穏やかに幸せを噛みしめて、
日々の感謝する時もあり。
また、八方塞がりで何をやってもダメ、
抜け出る気配も感じられず、ただただ
もがくのみの時も。
努力は裏切らないと言いますし、
努力の積み重ねが大事なのは、
間違いなく真実だと思います。
けれど一方で、どんなに努力をしても
望みが叶わないことは厳然としてあります。
そもそも自分の器がそのようには
授かっていなかったのかもしれないし、
努力の仕方がまずかったのかもしれない。
圧倒的に努力の量が足りなかった
可能性もあるのかもしれません。
あるいは、
思うタイミングではなくても、
人生はもっと大きな眼差しで、
その願いを最高の形で叶えようと、
準備している最中なのかもしれません。
自分の中で敗因がわかっているときは
それなりに自分の心にケジメを
つけられるものですが、
考えられ得る全てを検証しても
自分の中でいかなる答えも出せない時
というのがあって、
そういう時は、
さらなる混乱と迷いの中に入っていくようで
すごく辛いものがありますね。
ただひたすら、深く傷ついた心を抱えつつ、
その痛みを甘受するしか術がありません。
けれど、もう自分には無理だ、と思うような
そんな時でも、心の内のそんなつぶやきを
恩寵は見逃すことはありません。
本当にその人が嘘偽りなく
自身の道を歩み、逃げずにいるのなら、
その呼びかけ、問いかけには
必ず応答があります。
その人にだけ意味をなす、
間違えようもない、確かな応えが。
人間社会の価値観だと、
何かを成し遂げることとか、
生み出すこととか、
越えていくことに価値を置き、
何もしないでいることや、
一見して生産的でない状態というのは
良くないとか、否定的に捉えられる
ことが多いように思います。
けれど、魂の目線で見れば、
それらには何の価値の違いもなく、
ただひたすら、命の営みでしか
ないのでしょう。
人間社会の価値観に固まった私たちは、
生産的でない状態に自分が陥ると、
何とかしようともがき、焦り、
不安になってジタバタします。
何かしらの結果や結論を出さなければ
いけないのだと思うのですね。
けれど、
人生から差し出されているのは、
実はそういうことではないときも
あるのです。
その迷い、その不安、その焦り、混乱を
そのまま引き受けて、じっと甘受するのみが
その時やるべきことだったりする
時があります。
どれだけ答えを探し回っても
見つけることが出来ない時は、
まさにそういう時かもしれません。
ジタバタもがいている時は、
自分なりに必死で努力しているようでいて、
実はその行為自体が知らずに
逃避になっていることも良くあります。
だから、もがくのを止めて
ただ甘受するようにしたときに、
最も逃げたかったものを
逃げずに受け取れるようになる
ということもあるのかな、と思います。
甘受するということを、
敗北のように感じられる人も
あるかもしれません。
確かに、場合によっては
実際にそう見える状況になることも
あるでしょう。
ただ、人生の深いレベルでは、
勝利を越えた、もっと奥深いものを得る
態度なのではないかと思います。
そもそも敗北という時、
その人は何と戦っていたのでしょうか。
その戦いの本質をよく見てみたときに、
そこから降りたことの本質的な意味を
知るのではないでしょうか。
もちろん、戦うべきときは
戦う必要があるでしょう。
ただ、本当のところ
自分が戦っているのは何なのか、
注意深く洞察することは大切です。
そこから、戦うよりもなお奥深い
世界を変えていく力が現れてくる
こともあるからです。