自分で内観を続けていて、
すごくうまく行って成果の出るとき
もあれば、行き詰るときもあるし、
自分ではそこそこうまくできている
と思っていても、実は死角の部分に
見るべきものがあるのにごっそり
抜け落ちているということも
あります。
自分でも不調がわかれば
注意しようという意識にもなるので
まだ良いのですが、
自分で気づいていないときが、
一番恐いですね。
ただ、そういうときも
周囲からのお知らせは来ているものなので、
それをスルーせずに、おや?と思って
立ち止まって精査してみる、ということは
できると思います。
抜け落ちているものがあるのに
自分ではうまく行っている、
問題はないように見えるとき
というのは、
後でよくよく振り返ってみれば、
そう言えば、地に足がついておらず
フワフワしていたな、とか
確かに蓋をしている感覚があったのに、
当時はそれがその感覚だと
認識できていなかったとか、
全く何もサインが無かったわけでは
ないはずなんですね。
ただ、サインはあるけれど、
そのサインの意味が分からなかったり、
大したことないように思えたりと、
正確に受け取れていないことが
よくあります。
そういうのも、一度経験してしまえば、
あぁこれがそれね、とわかるのですが、
認識できないと、はて???
となってうまく応答できないのです。
外から来るサインには色々ありますが、
一つは、鏡の法則がありますね。
あなたは今、こんな状態になっているよ、
と教えてくれるような人が、
自身の現実に現れるわけです。
傍から見るとわかりやすいですが、
その人に対するアドバイスが、
今の自分がやるべきことに
重なります。
と、そんな基本に返りつつ、
セルフワークに励んでおります。
もっと深いレベルでハートの声を
聞けるだろうか。
これまで触れられなかった領域に触れて、
もっとはっきり何かを読み取れるだろうか。
そんなことを思いながら、
ざわつく心をかいくぐり、
意識を澄ませてみています。
ハートのこちら側と、あちら側。
ハートが私に伝えようとしていること。
それに対する、私自身の在り様。
ハートのず~っと奥の領域には、
ある種の懐かしさを感じる、
神聖な喜びがありました。
けれど、以前から表明している通り、
私には喜びの感覚が非常に薄く、
欠如しています。
概念としてのそれはあるけれど、
湧き上がるようなそれは、
無いんですね。
(感動や感謝の思いはあります)
それが、ハートの奥に見つけることが
できました。
ただそれは、多分この世界の喜びの概念
とはちょっと質感が違っていて、
だからこそ、私にはずっとこの世界の喜びが
違和感として感じられていたのかな、
と思いました。
けれど、ハートの奥で見つけた喜びには、
安らぐことが出来るのが、私にとっては
何よりの救いでした。
ハートが、私のこの先の生きる道を
示してくれたようでした。
こういう喜びを、この世界で求めても良い、
と思った瞬間に、何かぐっと堪えていたものが
溢れてきたように、覚えず涙が溢れました。
そのとき、自分がどれだけ欲しくもない
無味乾燥な喜びを感じられるようにと
もがいてきたのかがわかったからです。
私が本当に欲しかったのは、
この神聖な喜びだったんですね。
なぜこの喜びから離れてしまったのか、
無味乾燥な喜びに、砂を噛むような日々を
歩むことになったのかはわかりませんが、
取り敢えず、向かうべき方向性は
どうにか見えてきました。
こういう道の示され方は、
頭で考えていては絶対に出てこないもので、
ハートは理屈の予定調和を越えたところ
から道筋を示していきますね。
ハートの向こう側から示されたものを、
今度はこの現実に落とし込んでいく。
と、また途中から頭でその道筋を
予定調和で考えてしまっていましたが、
そうではない、と修正がかかって、
別の方法が示されました。
蛹から蝶が出てくるような、
変化のときのようです。
ハートから上位のチャクラが
何やら色々変化しています。
さてさて、どうなって行きますか。
取り留めないですが、
今日はこの辺で。